五代十国
ごだいじっこく
概要
907年、唐を滅ぼした朱全忠は帝位に即き後梁を建てた。しかし、この時点で唐は中国全土を支配する統一王朝としての実態を失っており、朱全忠の勢力範囲も首都・汴京(ぺんけい、開封)を中心とする華北の一部に留り、華中・華南の群雄達は各自の独立性を強めていく。以後、華北の後梁及びその後継王朝(「五代」)と華中・華南の諸王朝(「十国」)が割拠する状態へと突入した。これが五代十国時代である。
なお、「十国」の一つ北漢が滅亡し、宋による全国統一が完成するのは979年であるが、一般的には宋が成立した960年を以て、五代十国時代の終わりとする事が多い。
「五代」といわれる王朝は、節度使(藩鎮)出身が多い。また、その影響か突厥系沙陀族出身が多い(「五代」歴代政権の解説も参照)。
「五代」
後梁(907年 - 923年)
朱全忠が唐の李柷(哀帝)から禅譲を受け建国。漢人系。都は汴京(開封)。
対外的には、晋の李克用と争う。内政では一族間の内紛が絶えず、朱友珪が、友文(全忠が後継者としていた)、さらに全忠を相次いで殺害し皇帝となる。だが、さらに友貞が友珪を倒し、争いを制した。しかし、その内紛を突かれ、後唐の李存勗に攻められる。結果、友貞は自決し後梁は滅亡した。
後唐(923年 - 936年)
前身は父の李克用が建国した晋。しかし、克用は後梁との戦いの最中に敗死。これを継いだ李存勗が、後梁を内紛の隙を付いて滅ぼす。だが、即位後は圧政を敷いた上、酒色に溺れた。これに危機感を覚えた、叔父の李嗣源が遠征中に反旗を翻し、存勗を倒す。李嗣源(明宗)の治世は約10年続き、五代十国の中で最も安定した時代と言われる。しかし、明宗が病に倒れると後継者争いが起き、死後に閔帝が即位するが、まもなく殺され、殺した末帝が即位。この内紛の隙を付いた、後晋の石敬瑭に滅ぼされた。
後晋(936年 - 946年)
石敬瑭が契丹の支援を受けて建国。突厥(テュルク)系。都は汴京(開封)。
支援と引き換えに燕雲十六州の割譲、毎年、莫(貢物)を贈るという要求を受け入れる。しかし、息子の出帝は莫の廃止を宣言、契丹の怒りを買い、契丹の皇帝耶律堯骨に滅ぼされた。
後漢(947年 - 950年)
劉知遠が建国。突厥(テュルク)系。都は汴京(開封)。後周の郭威に滅ぼされた。当該リンクを参照。
後周(951年 - 960年)
郭威が建国。都は汴京(開封)。燕雲十六州を奪還するなど、領土を広げる。郭威の死後に即位した柴宗訓は幼かったため、弟の趙匡義らに擁立された、趙匡胤が柴宗訓から禅譲、後周は滅亡した。
宋(960年 - 1276年)