宮水神社
みやみずじんじゃ
存在意義
糸守町の豊穣祭や秋祭りの舞台であり、糸守の1000年の歴史が刻まれている組紐の作り手でもある宮水神社は、糸守町の最重要拠点と言っても過言ではないのだが……
ぞうり屋の山崎繭五郎が200年前に引き起こしてしまった『繭五郎の大火』によって、お宮も古文書も大半が焼失してしまい、組紐の文様の意味も、豊穣祭で行われる神楽の意味も、御神体が収められてる場所に描かれた絵の意味も解らなくなってしまって、形だけが残った状態になってしまった。
しかも、神主職を継ぐ筈だった宮水俊樹が宮水二葉の病死を切っ掛けに宮水一葉に反発する様になり、勘当と言う形で俊樹を追放してしまった。
が……立花瀧は、宮水三葉との風変わりな交流やティアマト彗星の一件などから、数年先を生きる人間と夢を通じて交流する警告システムこそが、宮水神社の……いや、宮水の血筋の真の存在意義ではないかと推察した。
実在の宮水神社
宮崎県西臼杵郡日之影町にある神社。旧社格は郷社。神社本庁に登録されている神社では唯一の「宮水神社」
主祭神は親武大明神こと戦国武将の三田井親武。天正19年(1591年)、九州征伐の結果明け渡しを要求された島津家配下の高千穂領主・三田井親武はこれを拒否し、主城である仲山城に籠城し徹底抗戦の構えを見せた。その為、縣城(延岡城)の高橋元種がこれを討伐することになった。
五ヶ瀬川沿いに多数の支城があり狭路のため攻めあぐねた高橋元種は諜略による攻略に切り替える。三田井家家臣で中崎城主の甲斐宗摂と内通し、謀反を起こさせることに成功した。甲斐宗摂は9月27日、仲山城内で親武を暗殺、城に火を放ち高橋軍に降った
親武の首は首実検のため高橋軍本陣に送られることになったが、途中の宮水で突然首が重くなり動かせなくなってしまった。その為この場で首実検が行われ、旧領民の手で手厚く埋葬された
その後、安政3年(1856年)に三田井氏支族の手で社殿が創建され神社となった
流造の本殿と拝殿がある。拝殿は開放型で神楽殿のような趣である。例祭日は4月3日。普段は無人であり御朱印やお守りなどはない。