孝霊天皇
こうれいてんのう
実績
孝安天皇102年、父帝・孝安天皇が崩御すると黒田庵戸宮(くろだのいおとのみや、奈良県磯城郡、田原本町黒田の法楽寺が伝承地)に移し、翌年に即位した。
皇統
- 皇后:細媛命(くわしひめのみこと、十市県主大目の娘)
・大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと、第8代・孝元天皇)
- 妃:春日千乳早山香媛(かすがのちちはややまかひめ、十市県主大目の娘)
千千速比売命(ちちはやひめのみこと)古事記のみ
- 妃:倭国香媛(やまとくにかひめ、和知都美命の娘)
・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)
・日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)古事記のみ
彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)
・倭迹迹稚屋姫命(やまとととわかやひめのみこと)
- 妃:絙某弟(はえいろど)
・彦狭島命(ひこさしまのみこと)
・稚武彦命(わかたけひこのみこと)
- 妃:真舌媛(ましたひめ)
史実性
神武天皇の崩御後は10代崇神天皇に至るまでの間、国内には有事なく、天下はよく治まって基礎がますます固まっていった。そのため『古事記』『日本書紀』に事跡の記事を欠き、戦後は実在しなかったとの見方が通説であった。
しかし都の所在地は創作ではありえず、御陵の記録も平地の前方後円墳ではなく考古学的な事実と一致しており、近年では創作説が説得力を失っている。
「ヤマトネコ」という称号は7代孝霊天皇・8代孝元天皇・9代開化天皇、少し離れて22代清寧天皇(『古事記』)にみえ、記紀の編纂が最終段階に入った7世紀末から8世紀初めに存在した持統天皇・文武天皇・元明天皇・元正天皇(『日本書紀』・『続日本紀』)の称号にもみえる。このことは、7,8,9代の天皇の称号を、後世の記紀編纂最終段階に存在した天皇の称号に似せて造作したとの疑いが濃厚であるとされた。
しかし後代の名辞が前代の名辞にちなんでつけられた可能性が当然あり、記紀成立後の平安時代にも明らかに前代の名辞を踏襲したことを確認できる実例がある。それは他ならぬヤマトネコの語を共通して含む桓武天皇・平城天皇・淳和天皇・仁明天応のケースで、これはとても否定の根拠にはなりえない。
その他
桃太郎
皇子の彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)と稚武彦命の兄弟は共に伝説上の桃太郎のモデルであるといわれている(一般に彦五十狭芹彦命の方が有名である)。