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ドミティアヌスの編集履歴

2012-09-21 11:00:30 バージョン

ドミティアヌス

どみてぃあぬす

11代ローマ元首 厳罰主義者暴虐君として記録抹殺


本名ティトス・フラウィウス・ドミティアヌス
スペルTITVS FLAVIVS CAESAR DOMITIANVS
皇帝名ティトス・フラウェウス・ドミティアヌス・アウグストス・ドミヌス・エト・デウス
スペルTITVS FLAVIVS CAESAR DOMITIANVS AVGVSTVS DOMINVSV ET DEVS
生没51年10月24日 ローマ(イタリア本土)- 96年9月18日 召使による暗殺(記録抹殺)
権力元老院から
統治81年9月14日 – 96年9月18日(15年)

概要

11代ローマ元首 厳罰主義者暴虐君として記録抹殺

ティトゥスの共同元首としてしられるが、ティトスと違い英才教育は受けさせてもらえなかったせいか、かなり正確に問題があったと言われている。歪んでいたのである。

元首ティトゥスが急死すると急遽ローマ元首に即位した。


無慈悲な元首

潔癖な政治を志したせいか不正を許さぬ統治をしたようだ。しかし度が過ぎてきた治世の末期は暴虐をもって伝えられる。無慈悲な法を強制発布し、市民から言論の自由を奪った。しかも自分に対してはかなり甘い性格であり最悪だとされていた。


自分に甘い性格

特にドミティアヌスはローマの綱紀粛正のため男娼娼婦に対し処刑を含む程の厳罰をくれたのに対し、彼自身の性欲も半端なかったそうでにもにも手を出していたと言われている。


元老議員や騎士階級のものをたびたび告発しては死刑にした。貴族階級に公然と敵意を示し、セナートスの決議をしばしば無効にした。そして自身を現人神(ドミヌス・エト・デウス=主にして神の意)と公言し、崇拝を強要するにいたった。


しかし彼はローマ帝国軍を優遇し政治手腕も無慈悲ではあるが有能であったようで、不正を許さぬ態度は方面軍や属州民からの支持は高かったが、ローマ市民には生き苦しい時代だったようだ。


96年に数々の非常な法律の報いをうけて、配下の奴隷と議員により惨殺された。


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