概要
マクラーレンMP4/4は、1988年のF1に投入されたF1マシン。マクラーレンは、新たにゴードン・マーレーが提唱するローライズコンセプトを採用し、太く大柄だった前年型のMP4/3とは違い細く低くコンパクトなデザインに移行し前年まで使われていたポルシェTAGエンジンから、ホンダエンジンに切り替え、ドライバーもアラン・プロストとロータスから移籍してきたアイルトン・セナのセナプロコンビとともに、前年逃したドライバーズチャンピオンとコンストラクターズチャンピオンを奪還するべく、ターボエンジン最後のシーズンとなる1988年のF1に挑むことになった。
驚異的な成績
この年、MP4/4はとてつもない成績を残した。それは、16戦15勝(勝率937)ポールポジション15回、ファステストラップ10回、ワンツーフィニッシュ10回という成績を残し、全てのレースでどちらかが優勝を果たし、唯一勝利を逃したイタリアGP以外全てでMP4/4はF1を完全に支配した。
コンストラクターズポイントは199ポイント。65ポイント獲得した2位フェラーリの3倍以上の差をつけ、ドライバーズランキングもセナとプロストの一騎打ちであった。7勝したプロストと8勝したセナのドライバーズチャンピオン争いでは獲得数ポイントではプロストが有利だったものの、当時のF1で採用されていた有効ポイント制によりベスト11戦のリザルトが有効とされドライバーズチャンピオンはセナが獲得した。
でもなんでこんなに勝てたの?
MP4/4が16戦15勝という圧倒的成績を叩き出した最大の理由、当時のレギュレーションにマッチしたホンダエンジンとマクラーレンチームに最高のデザイナーとドライバーが揃ったことが大きい。
この年を最後にターボエンジン車は使用が禁止される事が決まっており、そして燃料搭載量が195Lから150Lになるなど、ターボエンジン車に求められる燃費がより厳しくなってしまう。
しかしホンダはこの条件を逆手にとり、ホンダが誇る低燃費パフォーマンス技術を使い、他のメーカーエンジンよりも有利なエンジンを作ることができた。
また、前年からブラバムからマクラーレンに加入していたゴードン・マーレ―の手による全高が低く低重心で、ドラッグが少ない新型車のデザインは低重心なホンダ製V6エンジンと元々相性がよかったうえ、マーレ―からの希望でエンジン搭載位置をさらに下げるための改良を施したことで優れた運動性能を発揮。
それに円熟期に入った経験豊かなプロストと新進気鋭だが一発の速さが光る天才ドライバーのセナという最強の2人が乗ることで16戦15勝という圧倒的な成績をたたき出したのだ。
そしてここからマクラーレン・ホンダの黄金時代が始まって行くのとともに、他から抜きんでたパフォーマンスを持つことでチーム内にしかライバルが居ない状況となったことをきっかけとしてセナとプロストの関係に溝が生まれていくことになったのだが、その優位性も長くは続かず、前述の関係の悪化を切っ掛けとしたプロストのフェラーリ移籍やレギュレーション変更による大きく重いNAエンジンへの移行による重量バランス悪化、天才デザイナーであるマーレーの市販車チームへの転籍による車体デザインの保守的性格の強まりなどで徐々にその優位性は失われていくことになる。
余談
この年のマクラーレンが唯一優勝を逃したイタリアGPもプロストはエンジントラブルでリタイアしていたものの、残るセナが首位を走りチェッカー寸前の所まで来ていた。
しかし、残り2周まで来た所でこのレースにウイリアムズからスポット参戦していたジャン=ルイ・シュレッサーと接触・リタイアしてしまったため全戦優勝はならなかった。
なお、シャレッサーの叔父のジョー・シュレッサーがホンダF1第一期でRA302をドライブして事故死しているため、これと因縁付けて語られることもしばしあるが、この事故自体が2人のドライバーのミスと逃げ場のないコース状況が重なったことによって偶然起こってしまったレーシングアクシデントであり、双方とも意図的に事故を起こそうとしたものではない。
実際、セナもシュレッサーの状況に理解を示しており、二人の関係は以後も良好で、モナコでしばし会う仲だったという。
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アイルトン・セナ アラン・プロスト McLaren 本田技研工業 F1
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