内田樹
うちだたつる
概要
1950年9月30日生まれ。
東京大学文学部仏文科卒業、東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。最終学歴は修士。
合気道凱風館師範、神戸女学院大学名誉教授。
1990年から2011年まで神戸女学院大学に勤務。
豊富な著作を出版し、幅広い媒体に執筆・寄稿したり、各種メディアのインタビュー、ラジオ、講演等で発言しており、現代日本で影響力のある思想家の一人。
朝日新聞をはじめとした全国紙、様々な地方紙、AERAや文春や東洋経済など多彩な
雑誌といった商業メディアで連載を持ったり寄稿を行っている。
月刊日本などの保守雑誌、しんぶん赤旗や潮などの機関紙、農業新聞などの業界紙まで活躍する領域は幅広く、なぜか専門外の事柄について意見を求められることも多い。
内田の随筆は東大や阪大の受験用問題に採用された実績もあり、日本の知的領域に影響力を持っており、学校教員やマスメディアなどの業界にもファンは少なくない。
著作は中国語や韓国語に翻訳されて海外でも読まれている現代日本の書き手の一人である。
もともとブログで自由に日々の状況や思想などを書き綴っていたところ、編集者の目に留まってブログの内容が本としてまとめられ出版されたことから文壇デビューしており、インターネット発の現代的なキャリアでスタートした知識人である。
デビュー以降、凄まじい速度で本を出版し続けており、本人も原稿を「書き飛ばす」と形容することがしばしばあるほどの多作である。
対談や共著などを含めると平均年4冊程度というどえらいスピードであり、しかも大学教員としての通常の業務をこなしつつ各種のインタビューなどもこなしながら行っており、かなり速筆なことがうかがえる。
武道家としては1975年に合気道道場へ入門し、以来今日まで継続して修行を継続している。
現在合気道七段。
大学退職後は神戸に自宅兼合気道道場を解説し、弟子の教育に当たっている。
代表的な著作として、『日本辺境論』、『ためらいの倫理学』、『寝ながら学べる構造主義』、『先生はえらい』、『下流志向』、『レヴィナスと愛の現象学』 、『私家版・ユダヤ文化論』 、『困難な成熟』 などがある。
スタンス
主として教育論、知性、時事問題、日米関係、市民的成熟などについて発言している。
政治的には立憲民主党パートナーズであることを公表しており、社民党、日本共産党、れいわ新選組への支持も表明している。
カール・マルクスに影響を受けており、ブログでもしばしばマルクスを引用し、「マルクシアン」を称している。
社会格差の拡大に反対していることから、自民党、維新の会など新自由主義カラーの強い政党に対しては極めて批判的である。
また、「天皇主義者」「愛国者」を宣言し、天皇には陛下付けで敬う他、北一輝、頭山満、宮崎滔天、内田良平などのアジア主義者にも熱心な関心を寄せているし、
アレクシ・ド・トクヴィルやオルテガ・イ・ガセットやなどからも影響がうかがえるなど一面的な右派・左派と言い切れない両面的で複雑なポジションにいる。
形式的には保守左派と言われることもある。
東浩紀らと違いあまりサブカルチャーとは縁がないが、pixiv的に一番重要な表現規制は反対派。
経済的には新自由主義を批判しており、経済成長には地球の物理的限界があることや日本が人口減少フェーズに入って成長が原理的に困難であることなどからデクロワサンス(脱成長)寄りの持論を展開している。
ブログにアップロードした自らの著作物について、公開した文章は「著作権フリー」を宣言しており、「ブログの文章は勝手に本にして出版してもいいし盗作しても何でもしていい」と事実上パブリックドメイン化を表明している。
理由は、「テキストのアクセシビリティを阻害すべきではない」「自分の書いたものが多くの人に読まれてほしい」「自分と同じような思想を持つ人を増やしたい」「有償のテキストを読む習慣が生き残るためにはそれを読むためのリテラシーは無償のテキストから養わなければならない(どこかにタダでアクセスできる知的資源がないと本に価値を認めるだけの知性が育たないということ)」「流動性を失った知的資産というのは、換金できない貨幣と同じく、ただのゴミ」「創造行為の主体性や独自性そのものに疑問があるので権利主張に違和感がある」「そもそもコピーライツとかオーサーシップだとかの概念が嫌い」などと述べている。
ただし、講演などの労働投下を要する場合は対価を要求しているし、他者のコピーライツを侵害して良いとまでは言っていないし、著作権そのものには敏感であるとも発言している。
要するに、自由ソフトウェア運動などの著作権思想の左派にいる。
一部のエンジニアやプログラマであれば上記の理由は深く共感したり常識と考えるだろう。
尚、あくまでも原作者が自作について決定権を行使しているのみであり、大学のレポートなどで本当に盗用してしまうと法的には問題がなくても倫理的に弾かれる危険性があるので注意。
語録
ここでは、アフォリズムとして知的破壊力のあるものを中心に紹介する。
・理想的な教育というものがあるとすれば、それは「理想的な教育はありえない」という涼しい断念の上にしか築かれない。
・学校教育の現場は社会における支配的イデオロギーが濃縮されたかたちで瀰漫する場所であり、子どもはその社会における支配的イデオロギーにもっとも深く浸潤された存在である
・本来、国民国家は弱者救済のために制度設計されていなければならない。でも、弱者救済のシステムを作れば、「私は弱者です」と虚偽申請して「システムに寄生する」人間が必ず出てきます。これは、避けられない。どんなシステムを作っても、必ず出てきます。人間はそういうものだからです。ですから、「フリーライダーがゼロであるシステムを作る」と言うことは「弱者救済をしない」という以外に結論がない。
・大衆とは自分を含む社会全体の「地図」の上の自分の立ち位置を「私はここにいます」と指さすことができない人間たちのことだということである。
・大衆社会にはさまざまな特徴があるが、その一つは「視野狭窄」である。
彼らの行動準則は、「他人と同じであるか、どうか」だけである。
何らかの上級審級に照らして正邪理非を弁ずるということをしない。
・自国史の暗部にまっすぐ向き合うことができた国は、その歴史的経験からそれほど有害な影響を受けることがなく、そこから目をそらしたり、隠蔽したり、抑圧したりした国は結局それが原因で別のより深刻な症状を呈するようになる
・統合失調症の特徴はその「定型性」にある。
「妄想」という漢語の印象から、私たちはそれを「想念が支離滅裂に乱れる」状態だと思いがちであるが、実はそうではなくて、「妄想」が病的であるのは、「あまりに型にはまっている」からである。
健全な想念は適度に揺らいで、あちこちにふらふらするが、病的な想念は一点に固着して動かない。その可動域の狭さが妄想の特徴なのである。
・すべてのトラウマがそうであるように、それを言語化できないという当の事実が人間の人間性を成立させているのである。
・「あなたは私以上に倫理的であるべきだ」という言明ほど非倫理的なものはない。
・書き手が読み手の知性を自分よりも低いと想定して書いている文章(新聞の論説や解説記事はその好個の適例であるが)は、どれほど簡単な言葉で、平明な理屈で貫かれていても、決してリーダブルではない。
それを「理解したい」という読者のがわの知的な欲望を活性化しないからである。
・今の日本社会では「知性的にならない」ことに若者たちは知的エネルギーを集中している。
無知は情報の欠如のことではなく、(放っておくと入ってきてしまう)情報を網羅的に排除する間断なき努力の成果である。
「知性的になってはならない」という努力を80年代から日本は国策として遂行してきたわけであるから、これはスペクタキュラーな「成功」なのである。
だから、私たちが学生に与えるべきなのは知識や情報ではなく、「知性的な人間になっても決してそれで罰を受けることはないんだよ」という保証の言葉なのである。
・本来、「文明」とは、「私とは違うもの」を「私たち」という一人称複数計のうちに包摂し、他者とコミュニケーションしうるような公共的準位を構築する能力を指す。
・「共同体を作る」というのは日常的実感としては単に「不愉快な隣人の存在に耐える」ことだからである。
国民国家における市民社会はつねに「私と意見の違う人」「私の自己実現を阻む人」をメンバーとして含んでいる。
その「不快な隣人」の異論を織り込んで集団の合意を形成し、その「不快な隣人」の利益を含めて全体の利益をはかることが市民の義務である。
国旗国歌に敬意を払うことを拒否する市民をなおフルメンバーの市民として受け容れ、その異論にていねいに耳を傾けることができるような成熟に達した市民社会だけが、メンバー全員からの信認を得ることができる。
・「成熟した公民」とは、端的に言えば、「不快な隣人の存在に耐えられる人間」のことである。
・「いつまでも、今のままの自分でいたい。今のままの自分でいることに誇りがある。今のままの自分が大好き」という人の前では「次のステップ」に進むドアは永遠に開かない。
・科学的言説を語っているつもりの人間は、そこに充溢しているおのれの欲望を構造的に見落とす。
客観的学知を語る者はつどつねにその言説を駆動している自分の欲望を勘定に入れ忘れる
・他者の思考の「イデオロギー性」や「定型性」をあばくことは決してむずかしいことではない。困難なのは、おのれの思考のプロセスを領している、おのれの「条理」にまぎれこんでいる欲望とドクサを検出することである。
・日本の「教育」は実に徹底しており、これほど効率的にひとつの規格化された人格を生み出すことに成功している教育システムはおそらく世界に類例を見ない
日本では教育が失敗しているのではなく、「成功しすぎている」のである。
・私たちの社会は「学歴によって序列化されている社会」ではなく、「学歴以前のカテゴリカルな条件づけによってあらかじめ序列化されている社会」であって、学歴における差別化は、すでに制度化している差別化のひとつの徴候にすぎない。
・社会性というのは、ひとことでいうと、「システムがどういうふうに機能しているか、だいたい見当が付く」能力のことである。
・「最悪の事態が到来するまで何もしない」というのは日本人の宿痾である。
組織的危機の到来を警告する人間は日本社会では嫌われる。
ある日気がついてみると、どれほど危機的な事態に遭遇しても、何もしないで先送りして、ますます事態を悪化させることに長けた人々ばかりで日本社会の指導層が占められるようになった。
・「批評的である」というのは、ひとことでいえば「外に立つ」、ということである。
私たちの思考や感覚は、私たちがそこに嵌入されているもろもろの社会的・文化的な制度によって規制されている。
いわば、私たちはその制度によって選択的に何かを「見せられ」「聞かされ」「思考させられ」「感じさせられている」。
たとえば、語彙に存在しない概念を私たちは主題的には思考することができない。
批評的であるというのは、自分自身の視野を限定している、この文化的な「遮眼帯」の輪郭や機能を手探りして、「自分は何を見せられ、何から遠ざけられているのか」を知ろうとすることである。
・今の日本人はある種の知的な檻に閉じ込められています。ある種の論件について考えようとすると、そのとたんに思考が停止してしまう。もう一歩踏み込んで、「なぜこの人は他のことではなく、とりわけこのことを言うのか」「なぜ、このことは報道されて、それとは違うことは報道されないのか」といったメタレベルからの吟味が必要だと思うのですが、メディアはそういうことをしません。
・階層社会の本質的な邪悪さは、「階層社会の本質的な邪悪さ」を反省的に主題化し、それを改善する手立てを考案できるのが社会階層上位者に限定されているという点にある。
「社会的流動性を失った社会」を活性化できるだけ知的にも倫理的にも卓越した精神が同一の社会集団から繰り返し登場することによって、結果的に文化資本は少数集団に排他的に蓄積してゆき、社会的流動性は失われる。
この「トリック」は階層社会の内部にいる限り、前景化しにくい。
・階層社会というのは一部の社会集団にのみ選択的に社会的資源(権力、財貨、威信、文化資本)が配分されるシステムのことだが、このシステムは静態的なものでない。
階層社会における「支配的なイデオロギー」は、階層下位にいる人間たちに自ら進んで「階層下位に自らを釘付けにする」ようにふるまわせる。
「支配的なイデオロギーは支配階級のイデオロギーである」とマルクスが看破したとおりである。
その時代のマスメディアが大衆にむかって「こうふるまえ」とうるさく言い立てる生き方に従うと、その結果「階層上位」に資源がいっそう排他的に蓄積されるように支配的なイデオロギーは構造化されている。
・外交上のネゴシエーションというのは「全員が満足する合意」ではなく、「全員が同程度に不満足な合意」をめざして行われる。「当事者の中で自分だけが際立って不利益を被ったわけではない」という認識だけが、それ以上の自己利益の主張を自制させるからである。それがふつうの外交上の「落としどころ」である。
・新聞の投書欄というところはまず読まない。
当然ながら、そこには「誰でも言いそうな意見」しか掲載されないからである。投書者の中にはずいぶんな奇論暴論を述べる人もいるはずだが、それはおそらく検閲ではじき出されてしまうのであろう。だから、私たちがそこから新たな情報や知見を汲み出す可能性はほぼゼロである。
しかし、それでもときどき読むのは、「メディアによる世論操作」の症例研究としてである。
・高等教育の目指すべきことは一つしかありません。それは「どうしたら学生たちの知性が活性化するか」について創意工夫を凝らすことです。学生たちの目がきらきらと輝き始めるのはどういう場合か、学生たちが前のめりになって人の話を聞き、もっと知りたい、もっと議論したい、もっと推理したいというふうになるのはどういう場合か。それについて集中的に考えるのが大学での教育だろうと僕は思っています。知性というのは情報や知識のような「もの」ではありません。このような、「前のめりの欲動」のことです。前のめりの運動性なのです。
・教師の仕事はあらゆる手立てを尽くして、「学生に知的に前のめりになってもらう」ように導くことです。僕は自分の目の前で、それまで停止していた学生たちの思考が、あることをきっかけに一斉に動き出し、突然自分でものを考えだし、自分の言葉で語りだし、自分のロジックを作り出していく瞬間を何度も見てきました。まるでばりばりと皮が剥がれるかのような状況を目の当たりにするのです。これは実に感動的な光景です。教師という仕事を選んでよかったと思えるのはそういうときです。
一度脱皮し、知的なブレイクスルーを経験した学生たちは、後は自分で勉強します。学びの本質は自学自習ですから、後はもう放っておいても構わない。本を貸してくれと言われたら貸し、学会に行きたいと言われたら連れていき、会いたい人がいると言われれば紹介する。それから後の教師の仕事は「点をつなぐ」だけです。ひとたび「学びたい」という状態になった学生に対して教師がする仕事はもうそれだけで十分なんです。ですから、教師にとっての問題はどうやって「学びたい」という思いを起動させるか、それだけです。
・私は絶対王政も軍国主義もスターリン主義もフェミニズムも全部嫌いだが、それはその「イズム」そのものの論理的不整合をとがめてそう言うのではない。それらの「イズム」が、その構造的必然として、小ずるい人間であればあるほど権力にアクセスしやすい体制を生み出すことが嫌いなのである。
・国民国家という概念は政治を考えるときの基礎的な操作単位でありつづけるべきではない、と私は考えている。国民国家よりも「大きな」単位や、「小さな」単位をアドホックに基準にとって、政治プロセスの分析や予見を行うことがいずれ政治学を領する「常識」になるだろうし、なるべきだ、と私は考えている。
・国旗国歌については、「私はそれを受け容れられない」という権利は全国民に認められるべきだと私は思っている。
強権を以て政治的象徴への敬礼を市民に強いるような社会では、しばしばそれは憎しみを込めた毀損の対象となる。旧ソ連のレーニン像もリビアのカダフィ大佐の肖像もその運命を免れることができなかった。
「敬意を表しないものを罰する」というやり方は恐怖を作り出すことはできるが、敬意そのものを醸成することはできない。
・ほとんどの「愛国者」の方々の発言の大部分は「同国人に対するいわれなき身びいき」ではなく、「同国人でありながら、彼または彼女と思想信教イデオロギーを共有しない人間に対する罵倒」によって構成されている。
人は「愛国心」という言葉を口にした瞬間に、自分と「愛国」の定義を異にする同国人に対する激しい憎しみにとらえられる。
私はそのことの危険性についてなぜ人々がこれほど無警戒なのか、そのことを怪しみ、恐れるのである。
歴史が教えるように、愛国心がもっとも高揚する時期は「非国民」に対する不寛容が絶頂に達する時期と重なる。
「愛国」の度合いが進むにつれて、愛国者は同国人に対する憎しみを亢進させ、やがてその発言のほとんどが同国人に対する罵倒で構成されるようになり、その政治的情熱のほとんどすべてを同国人を処罰し、排除することに傾注するようになる。
歴史が教えてくれるのは、「愛国者が増えすぎると国が滅びる」という逆説である。
排除を経由しなければ達成できない統合などというものは存在しない。
自分に同意しない同国人を無限に排除することを許す社会理論に「愛国」という形容詞はなじまない。
それはむしろ「分国」とか「解国」とか「廃国」というべき趨向性に駆動されている。
・嫌韓言説の一番奥にあるほんとうの動機は「おのれの反社会的な攻撃性・暴力性を解発して、誰かを深く傷つけたい」という本源的な攻撃性である。
「ふだんなら決して許されないふるまいが今だけは許される」という条件を与えられると、いきなり暴力的・破壊的になってしまう人間がこの世の中には一定数いる。
韓国政府と韓国民を批判するという大義名分さえ立てば、どんなに下品で暴力的な言葉を口にしても、どんな無根拠な暴言でも許され、処罰されることがない。人々はしだいにそう思い始めている。だが、「処罰されない」という保証があれば、要らないものを盗み、ゆきずりのものを壊し、恨みもない人間を傷つけるということが平気でできる人間を私たちの社会は一定数抱え込んでいる
嫌韓言説をドライブしている人たちは固有名において、オリジナルな政治的知見を述べたいわけではない。
いずれ、嫌韓ブームが去れば、彼らはまた「ふつうの人」に戻って、韓国のことなど何も口にしなくなるだろう。そもそもどうして自分があれほど熱心に韓国のことを罵倒していたのか、その理由すら思い出せまい。彼らは別に韓国に用事があったわけではないからだ。