概要
「中国五千年」と謳われる中国の歴史は、その殆どが闘争の歴史である。
それ故に文化は著しく発達した。日本においては稲作文化や仏教などが伝わり、明治期までは常に先進国として羨望の眼差しで見られていた。
ヨーロッパにおいてもルネサンスを始めとする近代化の遠因となる三代発明「火薬・羅針盤・活版技術」を伝播させるに至った。
多くの国家や民族、英雄が栄え、滅んでいった数は星の如く、現在に遺る事も無く忘れ去られた歴史も少なくはない。
それが「中国五千年」の歴史の魅力であり、全世界の人間を惹きつけてやまない要因の一つであろう。
先史
中国の黄河文明は古代の四大文明の一つに数えられ、また黄河文明よりも更に遡る長江文明が存在した。
中国大陸では、古くから文明が発達し、大きく分けて黄河文明と長江文明の2つがある。
黄河文明は、畑作が中心、長江文明は稲作が中心であった。
黄河文明が後に殷(商)や周などにつながっていき、中国大陸の歴史の中軸となった。
長江文明は次第に、中央集権国家を創出した黄河文明に同化吸収されていった。
先秦時代
三代
史記では伝説と目される三皇五帝時代に続いて夏王朝について記述されている。夏については実在が確かでなくまた定説もない。
殷(商)が実在の確認されている最古の王朝である。
殷では、王が占いによって政治を行っていた(神権政治)。
殷は以前は山東で興ったとされたが、近年は河北付近に興ったとする見方が有力で、黄河文明で生まれた村のうち強大になり発展した都市国家の盟主であったと考えられる。
紀元前11世紀頃に殷を滅ぼした周は、各地の有力者や王族を諸侯として封建制をおこなった。
しかし、周王朝は徐々に弱体化し、異民族に攻められ、紀元前770年には成周へ遷都した。
その後、史記周本紀によれば犬戎の侵入により西周が滅び、洛陽に東周が再興されるが、平勢隆郎の検討によれば幽王が殺害されたあと短期間携王が西、平王が東に並立し、紀元前759年平王が携王を滅ぼしたと考えられる。
平王のもとで周は洛陽にあり、西周の故地には秦が入る。これ以降を春秋時代と呼ぶ。
春秋時代には、周王朝の権威はまだ残っていたが、紀元前403年から始まるとされる戦国時代には、周王朝の権威は無視されるようになる。
春秋戦国時代
諸子百家の一、孔子春秋戦国時代は、諸侯が争う戦乱の時代であった。
春秋時代は都市国家の盟主どうしの戦いだった。
しかし春秋末期最強の都市国家晋が三分割されたころから様子が変わる。その当時の晋の有力な家臣六家が相争い、最初力が抜きん出ていた智氏が弱小な趙氏を攻めたものの、趙氏が農村を経済的ではなく封建的によく支配し城を守りきり、疲弊した智氏を魏氏、韓氏が攻め滅ぼしたことで最終的に晋は趙、魏、韓の三氏に分割され滅亡した。
このこともあってそれまで人口多くてもせいぜい5万人程度だった都市国家が富国強兵に努め、商工業が発達し、貨幣も使用し始めやがて領土国家に変貌しその国都となった旧都市国家は30万人規模の都市に変貌する。
また鉄器が普及したこともあいまって、農業生産も増大した。晋の分裂以後を一般に戦国時代という。
秦漢帝国
現在の陝西省あたりにあった秦は、戦国時代に着々と勢力を伸ばした。
勢力を伸ばした背景には、厳格な法律で人々を統治しようとする法家の思想を採用して、富国強兵に努めたことにあった。
秦王政は、他の6つの列強を次々と滅ぼし、紀元前221年には史上はじめての中国統一を成し遂げた。秦王政は、自らの偉業をたたえ、王を超える称号として皇帝を用い、自ら始皇帝と名乗った。
兵馬俑始皇帝は、法家の李斯を登用し、中央集権化を推し進めた。
このとき、中央から派遣した役人が全国の各地方を支配する郡県制が施行された。
また、文字・貨幣・度量衡の統一も行われた。さらに、当時モンゴル高原に勢力をもっていた遊牧民族の匈奴を防ぐために万里の長城を建設させた。
さらに、軍隊を派遣して、匈奴の南下を抑えた。
また、嶺南地方にも軍を派遣し、この地にいた百越諸族を制圧した。
しかし、このような中央集権化や土木事業・軍事作戦は人々に多大な負担を与えた。
そのため、紀元前210年に始皇帝が死ぬと、翌年には陳勝・呉広の乱という農民反乱がおきた。
これに刺激され各地で反乱がおき、ついに秦は紀元前206年に滅びた。
後漢時代に改良された、紙秦が滅びたあと、劉邦と項羽が覇権をめぐって争ったが、紀元前202年には、劉邦が項羽を破り、漢の皇帝となった。
劉邦は、始皇帝が急速な中央集権化を推し進めて失敗したことから、一部の地域には親戚や臣下を王として治めさせ、ほかの地域を中央が直接管理できるようにした。これを郡国制という。
しかし、紀元前154年には、各地の王が中央に対して呉楚七国の乱と呼ばれる反乱を起こした。
この反乱は鎮圧され、結果として、中央集権化が進んだ。紀元前141年に即位した武帝は、国内の安定もあり、対外発展を推し進めた。
武帝は匈奴を撃退し、シルクロードを通じた西方との貿易を直接行えるようにした。また、朝鮮半島北部、ベトナム北中部にも侵攻した。
これらの地域はその後も強く中国文化の影響を受けることとなった。
また、武帝は董仲舒の意見を聞いて、儒教を統治の基本とした。
これ以降、中国の王朝は基本的に儒教を統治の基本としていく。
一方で文帝の頃より貨幣経済が広汎に浸透しており、度重なる軍事行動と相まって、農民の生活を苦しめた。
漢の宮廷では貨幣の浸透が農民に不利益であることがしばしば論じられており、農民の救済策が検討され、富商を中心に増税をおこなうなど大土地所有を抑制しようと努力した。
また儒教の国教化に関連して儒教の教義論争がしばしば宮廷の重大問題とされるようになった。
8年には、王莽が皇帝の位を奪って、一旦漢を滅ぼした。
王莽は当初儒教主義的な徳治政治をおこなったが、相次ぐ貨幣の改鋳や頻繁な地名、官名の変更など理想主義的で恣意的な政策をおこなったため徐々に民心を失い、辺境異民族が頻繁に侵入し、赤眉の乱など漢の復興を求める反乱が起き、内乱状態に陥った。
結局、漢の皇族の血を引く劉秀によって漢王朝が復興された。
この劉秀が建てた漢を後漢という。
王朝初期には雲南に進出し、また班超によって西域経営がおこなわれ、シルクロードをおさえた。
初期の後漢王朝は豪族連合的な政権であったが、章帝の時代までは中央集権化につとめ安定した政治が行われた。
しかし安帝時代以後外戚や宦官の権力の増大と官僚の党派対立に悩まされるようになった。
魏晋南北朝時代
後漢末期の184年には、黄巾の乱と呼ばれる農民反乱がおきた。
これ以降、隋が589年に中国を再統一するまで、一時期を除いて中国は分裂を続けた。
この隋の再統一までの分裂の時代を魏晋南北朝時代という。
また、この時期には日本や朝鮮など中国周辺の諸民族が独自の国家を形成し始めた時期でもある。
黄巾の乱が鎮圧されたあと、豪族が各地に独自政権を立てた。
中でも有力であったのが、後漢王朝の皇帝を擁していた曹操である。
しかし、中国統一を目指していた曹操は、208年に赤壁の戦いで、江南の豪族孫権に敗れた。
結局、曹操の死後、220年に曹操の子の曹丕が後漢の皇帝から皇帝の位を譲られ、魏を建国した。
これに対して、221年には、現在の四川省に割拠していた劉備が皇帝となり、蜀を建国した。
さらに、江南の孫権も229年に皇帝と称して、呉を建国した。この魏・呉・蜀の三国が並立した時代を三国時代という。
三国の中で、もっとも有力であったのは魏であった。魏は後漢の半分以上の領土を継承したが、戦乱で荒廃した地域に積極的な屯田をおこない、支配地域の国力の回復につとめた。
魏では官吏登用法として、九品官人法がおこなわれた。
三国は基本的に魏と呉・蜀同盟との争いを軸としてしばしば交戦したが、蜀がまず263年に魏に滅ぼされ(蜀漢の滅亡)、その魏も有力な臣下であった司馬炎に265年に皇帝の位を譲るという形で滅亡した。
司馬炎は皇帝となって国号を晋と命名し、さらに280年に呉を滅ぼし、中国を統一した。
しかし、300年から帝位をめぐって各地の皇族が戦争を起こした(八王の乱)。このとき、五胡と呼ばれる異民族を軍隊として用いたため、これらの五胡が非常に強い力を持つようになった。
316年には、五胡の1つである匈奴が晋をいったん滅ぼした(永嘉の乱)。
これ以降、中国の北方は、五胡の建てた国々が支配し、南方は江南に避難した晋王朝が支配した。
この時期は、戦乱を憎み、宗教に頼る向きがあった。
代表的な宗教が仏教と道教であり、この2つの宗教は時には激しく対立することがあった。
江南を中心とする中国の南方では、異民族を恐れて、中国の北方から人々が多く移住してきた。
これらの人々によって、江南の開発が進んだ。それに伴い、貴族が大土地所有を行うということが一般的になり、貴族が国の政治を左右した。
一部の貴族の権力は、しばしば皇帝権力よりも強かった。
これらの貴族階層の者により散文、書画等の六朝文化と呼ばれる文化が発展した。
東晋滅亡後、宋・斉・梁・陳という4つの王朝が江南地方を支配したが、貴族が強い力を握ることは変わらなかった。
梁の武帝は仏教の保護に努めた。
北方では、鮮卑族の王朝である北魏が台頭し、439年には、華北を統一した。
471年に即位した孝文帝は漢化政策を推し進めた。
また、土地を国家が民衆に割り振る均田制を始め、律令制の基礎付けをした。
しかし、このような漢化政策に反対するものがいたこともあり、北魏は、西魏と東魏に分裂した。西魏は北周へと、東魏は北斉へと王朝が交代した。
577年には北周が北斉を滅ぼしたが、581年に、鮮卑系の隋が北周にとって代わった。589年に、隋は陳を滅ぼした。