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小少将の編集履歴

2013-03-08 08:50:51 バージョン

小少将

こしょうしょう

小少将(生年不詳 - 天正元年8月26日(1573年9月22日)?)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。越前国の大名朝倉義景の側室。

生涯

朝倉氏の家臣斎藤兵部少輔の娘。兄弟に斎藤新三郎がいる。『朝倉始末記』などの軍記物では「小少将」「小将」「少将」と名前がまちまちであるが、一乗谷朝倉氏遺跡の朝倉義景館外濠から出土された付札木簡には「少将」「少しやう」と書かれていることから、女房名は「少将」が正しいと考えられている。また、諏訪館に住んだことから「諏訪殿」とも呼ばれる。

義景の嫡男阿君丸が永禄11年(1568年)6月25日に死亡(毒殺の疑いがある)した後、側室になったと伝えられ、元亀元年(1570年)に愛王丸を生んだ。天正元年(1573年)8月、義景が刀根坂の戦いに敗れ、一乗谷を放棄して大野郡へ落ち延びるとこれに随う。朝倉景鏡の裏切りにより義景が自害した後、愛王丸、光徳院(義景母)とともに捕らえられ、8月26日、織田信長の命を受けた丹羽長秀の手により、南条郡帰りの里付近で殺害された。


ただし『越州軍記』には愛王丸と光徳院が害されたとは記されているが、小少将の名はなく、生存説もある。更に、彼女のことかは不明だが、岐阜県御嵩町の願興寺には、義景の妾が寺の別当を頼って落ち延び、その後義景の遺児を出産したという言い伝えがある。


創作物上の扱い

戦国大戦

夫である義景とともに朝倉家の武将として参戦。

二つ名は「一条谷の妖星」。

朝倉家特有の顔を覆うものは目隠し。


見出し画像は戦国大戦のイラストがモデルになっており、二つ名に違わない妖艶な姿をしている。

台詞も『ふふ……存分に楽しんでいいわ』(開戦前)や、『本当のお楽しみは、これから……』(虎口攻め成功字時)など、色っぽいのが特徴。


スペックは、コスト1 武力1/統率5の弓足軽で、特技は「防柵」と「魅力」。

攻撃面での戦果は期待できないが、防御時の射撃による攻城妨害・「気合」特技の回復妨害と、サポート面は結構優秀。


持ち計略の「鳥篭の陣」(とりかごのじん)は、敵武将が一度入ると陣の範囲外へ出られなくなる陣形を展開するが、自身は動けなくなってしまう。

範囲が広めなため完璧に封じ込めることはできないが、その分多くの敵軍武将を閉じ込めやすい。

兵力がわずかの敵武将を確実に処理したり、防御に回ろうとした敵武将を捕まえて攻城を有利にするなど、用途が非常に多彩。


「早く私のところへ戻っておいで……」


細川持隆妻

小少将というのは、当時割りとポピュラーな名前であり、同名の人物は意外と多く存在する。その中でも特に著名なのが細川持隆の妻となった人物である。

三好義賢の家臣・岡本牧西娘(生没年不詳)。


三好家の主君で阿波守護の細川持隆(管領・細川晴元の従弟)の目に止まり、側室として細川真之を出産。その持隆が三好家に謀殺されると、三好義賢と再婚。三好長治十河存保の二人の息子をもうける。義賢の死後は、三好家重鎮・篠原長房の弟・自遁に嫁ぎ、その自遁が長宗我部家に敗れ、落ち延びた淡路で没した後の足跡は不明。

彼女の子供たちは互いに争っており、長治真之に討たれ、その真之存保に自害に追い込まれる。そして存保も、後に帰順した豊臣方で参戦した戸次川の戦いで戦死している。一説には、小少将は実は真之長治を仲裁しようとして殺害されたとされる。


戦国時代とはいえ、周囲に争いの絶えない中、多くの家を自らの意思で渡り歩いた人物。美貌と強靭な意思の持ち主と伝わるため、彼女を「傾国の美女」もしくは「烈女」、時には「悪女」とすら見る向きもある。

長宗我部元親

長元物語(長元記)によるならば一男右近大夫(元親の五男)と一女小宰相あり。詳しい出生は不明だが、秀吉に敗れて死んだ明智光秀の姪との説がある(長宗我部家と明智家は割と近い縁戚関係があり、織田信長の生前は光秀が元親との交渉を受け持つなど両家は一定の交流があった)。

前述の細川持隆妻と同一視する説もあるが、年齢的にかなり無理がある(彼女はどう少なく見積もってもこの時4,50代)ので憶測の域を出ない。

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