金剛乗(ヴァジュラヤーナ)とも。言葉や理論でもって人々に教えを説くことの
多い顕教に対し、さらに曼荼羅といった神秘的・抽象的なシンボルや
儀式、所作、陀羅尼やマントラ(真言)を用いて悟りを目指す教えである。
先の二つは中期密教までだが、チベット仏教はさらに後期密教をインドから伝承している。
顕教でも瞑想などの実践はあり、きちんと師匠につくことが望ましいとされるが、
密教はその色合いがさらに濃い。現代だとスーパーカーが喩えにされるように、
顕教よりも悟りにたどりつくための力に優れるとされる反面、
資格の無いものが密教に手を出すことはかえって害となり、
悪い来世すらもたらすと言われている。そのため密教を実践するためには
資格のある者に授けられる灌頂を受ける必要があり、
そこで学んだことをみだりに言って回ってはならないとされる。
教理や教学(教相)までならよいらしいが、儀式や修法の内容(事相)となるとアウトである。
これを破ることはサマヤという密教の戒律で戒められている。