概要
第二次世界大戦終結後に行われた、東京裁判(極東国際軍事裁判)にて、判事を行った。『パール判事・博士』ともよく呼ばれる。しかるべき東京裁判では日本の全面無罪を訴え続け、裁判終了後も戦前・戦中の歴史について研究し、何度も来日し日本人に対し日本無罪を訴え続けた。
靖国神社境内の遊就館の脇や、霊山護国神社内に、パール判事の顕彰碑がある。
経歴
1886年生まれ。
インド・ベンガル地方出身。
1941年カルタッタ高等裁判所判事、1944年カルタッタ大学総長、1946年インド代表として東京裁判判事に就任。東京裁判終了後、国連国際法委員会委員、同委員会委員長などを歴任。
1967年死去。
エピソード
- 東京裁判時、裁判官席に着く前に必ず被告席のいわゆる戦犯の方々に向かい合掌し、法廷の人々はその敬虔な姿に少なからず感銘を覚えたという。
- 『パール判事の日本無罪論』(小学館文庫)の著者である田中正明氏は、パール判事と深く交流しており、非常に親しかった。パール判事は田中氏を「マサアキチャン(正明ちゃん)」と呼び、「お前は永久に私の子供だ」とまで言っていたという。
名言
来日時の講演での言葉
「私は1928年から45年までの18年間の歴史を2年8ヵ月かかって調べた。各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中にはおそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。この私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。そして自分らの子弟に『日本は国際犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。満州事変から大東亜戦争勃発にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して充分研究していただきたい。日本の子弟が、歪められた罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されてゆくのを、私は見過ごして平然たるわけにはゆかない。彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤られた歴史は書き換えられねばならない。」