宇都宮成綱
概要
宇都宮成綱(1468年 - 1516年12月1日)は下野の戦国大名で、宇都宮氏十七代当主。
父宇都宮正綱が1477年に上野で陣没したために、弱冠10歳で家督を継ぐが、一門である武茂氏は成綱の家督継承に不満を抱き、若い成綱を軽視し、政治を専横する。その後、武茂氏の重臣らが、武茂六郎に家督を継承させようと叛乱を起こすが、成綱の叔父である芳賀高益の力を借りて鎮圧し、実権を手にした。
芳賀氏はこの後も心強い家臣として成綱を支えていくが、芳賀高勝の頃になると、芳賀氏がかつての武茂氏のように専横するようになる。この頃は高勝が成綱に代わって公事の免除を命じたり、当主である成綱発給の文書に高勝が連署するという主従関係の逆転までいていた。1506年に古河公方の内紛が起こると成綱は介入し、婿の足利高基を支援する。しかし、高勝は高基の父足利政氏を支援したために家中は分裂状態になった。成綱は宇都宮家中が一致していないことを危惧し、また自身への権力の集中も兼ね、芳賀氏の討伐を決意する。1512年に芳賀高勝の謀略で嫡男の宇都宮忠綱に家督を継がせ、隠居させられてしまうが、反撃を開始する。宇都宮城で芳賀高勝を謀殺し、その後、芳賀氏側の重臣の城館を一斉に攻撃した。芳賀氏との全面対決になったが、2年間掛けてこの内乱を鎮圧した。この内紛は宇都宮錯乱といわれており、この内紛の遺恨が成綱亡き後の宇都宮氏の大幅な弱体化を招くことになる。
勢力拡大にも積極的で1509年には蘆名氏を片角原の戦いで大勝し、塩原の地まで進出している。また、宇都宮錯乱の隙を狙って1514年に佐竹義舜率いる佐竹・岩城・那須連合軍が2万の大軍で宇都宮領に侵攻してくるが、同盟を結んでいる結城政朝と協力して撃退に成功する。この戦いは高林の戦いとよばれている。また1516年に再び佐竹義舜が大軍で攻めてくる。小川縄釣の合戦とよばれるこの戦いでは、事前に南那須氏と不戦条約を結んだ成綱の計略と采配によって佐竹勢は総崩れし、再起不能にするほどの大打撃を与えて大勝する。また、古河公方の威光も利用したりして勢力の拡大も努めている。武功や采配だけでなく外交能力も優れていたといわれ、断絶した一門の武茂氏、塩谷氏や叛乱因子の芳賀氏に子や兄弟を送り継がせることで勢力の安定化と北の守りを図った。また、娘を古河公方や結城氏に嫁がせることで勢力の拡大も図った。上那須氏の内紛に介入し、子の興綱を上那須氏の当主にして傘下に取り込もうと画策した(しかしこれは那須資房が危惧して早急に上下那須の統一を果たしたために失敗した)など、このようにして勢力を拡大させた宇都宮氏は当時、北関東最大の勢力だったといわれており、関東に与える影響力も大きかったと思われる。その後も勢力を拡大し続け、関東に覇を唱える可能性もあったが、1516年12月1日に宇都宮城で没する。享年49歳。
しかし、成綱の死後、宇都宮錯乱の遺恨や嫡男忠綱の無謀な侵攻が原因で家臣の叛乱や内紛、離反が相次ぎ、宇都宮氏は大きく弱体化してしまうことになる。
創作物における宇都宮成綱
ゲーム
『信長の野望』シリーズ
成綱が没して約十年後、壬生綱房や芳賀高経、芳賀高孝らの謀略によって混乱し、勢力拡大どころではないくらいに弱体化した宇都宮氏の武将は、『信長の野望』シリーズでは、かなり過小評価をされている。
最盛期を築き、もう少し長く生きていれば関東に覇を唱える一大勢力にまで成長することも可能であった英主・成綱は『蒼天録 PK』のみに登場しているが、成綱もその影響を強く受けている。だが、それでも宇都宮氏の武将の中ではトップのステータスである。