光緒帝
(こうしょてい、こうちょてい)
世没:1871年8月14日 - 1908年11月14日〈37歳〉
在位:1875年2月25日 - 1908年11月14日〈35年〉
清朝の第11代皇帝。諱は載湉、廟号は徳宗。在世時の元号の光緒を取って光緒帝と呼ばれる。
道光帝の第7子醇親王の第2子として生まれる、母は西太后の妹。同治帝が早世した後に権力保持を狙う西太后によって擁立された。即位したのは3歳の時であり、当然実権は西太后が握っていた。1871年にイリ問題や1876年の琉球失陥、1885年の清仏戦争による朝貢国ベトナムへの影響力喪失をし、1894年には日清戦争による朝鮮への影響力喪失など相次ぐ自国のふがいなさを光緒帝は嘆き国勢回復を切望するようになった。それゆえ康有為、梁啓超らによる変法運動への興味を強く持つようになり西太后の傀儡から脱し自らの親政により清の中興を成し遂げようとした。光緒帝は1898年に体制の抜本的な改革を宣言(戊戌の変法)した。
構造改革に失敗
しかしあまりにも急進的な改革に紫禁城は混乱し、保守派の期待は西太后へ集まるようになる。西太后は当初静観していたが、変法派の一部が西太后の幽閉を計画。当初変法派に同調していた袁世凱は、変法派を裏切りこの計画を西太后の側近栄禄に密告した。西太后は先手を打ってクーデタを起こし、光緒帝を監禁し、変法派を弾圧した(戊戌の政変)。西太后は一時光緒帝の廃位を考え、端郡王載漪の子溥儁を大阿哥(皇太子)に立てたが、外国の反対にあい光緒帝の廃位は断念した。
義和団の乱
義和団の乱が勃発し八ヶ国連合軍が北京に迫ると、西太后は光緒帝を連れて西安まで落ち延びる。その際に光緒帝の側室珍妃が西太后の命により井戸に投げ込まれて殺害された。外国との交渉で事件の処分は直接首謀者だけに限られ北京帰還後も実権は西太后が握り続けた。その後、西太后の主導でかつての戊戌の変法と基本的に同じ路線の近代化改革である光緒新政が展開されるが、光緒帝は終始西太后の傀儡にとどまった。1908年に崩御
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伊藤博文・・・大日本帝国初代内閣総理大臣。光緒帝と会談した。