生死:1782年9月16日 - 1850年2月25日〈68歳〉
在位:1820年10月3日 - 1850年2月25日〈30年〉
中国清朝の第8代皇帝。諱ははじめ綿寧と改める、廟号は宣宗。在世時の元号の道光を取って道光帝と呼ばれる。彼の治世は嘉慶帝とともに動乱の時代として認知される。
アヘンとの戦い
アヘン中毒の蔓延が深刻で清朝帝室にまで及ぶ始末であり、紫禁城政府が幾ら取り締まりの強化を命じても役人は私服を肥やすばかりで対処が散漫であり、アヘン中毒は紫禁城の高級官僚・皇族の間にも蔓延しており。〈アヘンの輸入を認めて関税を得たほうが良い〉と述べた枢機大臣(軍機処大臣)を処罰。道光帝自身は麻薬の中毒性をよく理解しとして林則徐に麻薬取締りを一任、一定の効果を挙げる。取り締まりを知った大英帝国は現地のイギリス商人を支援するために派遣されたイギリスの東洋艦隊は、広東ではなく北京に近い天津に現れた。間近に艦隊を迎えた紫禁城政府は狼狽し慌てて林則徐を解任し、イギリスの意を迎えることに必死になった。林則徐の後任の琦善はひたすらイギリスに低姿勢で臨み結果清が大幅に譲歩した南京条約を結ぶ事になった。
大変天国国の乱
清朝のイギリス帝国への屈辱的対応や、政治の腐敗による行政の劣化は。洪秀全一味による「太平天国」の建国につながった。これに対し清は八旗緑営軍が鎮圧に出動。しかし八旗緑営軍が太平天国軍に完敗する事態となってしまった。これにより紫禁城政府は混乱し、屈辱的な対策を打ち出した。大清皇帝が自らイギリス帝国軍側に救済の直談判をしたのである。これに対し英帝国は軍事同盟に賛成するのと引き換えに清国へのアヘン輸入の前面許可を条件に出した。道光帝は非常に不本意だがこれを受け入れ、清・英帝国の連合軍を組織、太平天国への防戦を展開し、やっとの思い太平天国を鎮圧に成功。しかし康熙帝時代の軍備とさほど変わらない清朝の八旗軍団もはや使い物にならないことが国内外に知れ渡り、諸外国を圧迫をさらに許す結果となった上にアヘン流入の清朝社会に浸透し、清帝国の三分の一の臣民に重度のアヘン中毒者を出す結果となってしまった。
道光帝の肖像画にも残るように道光帝の風貌や顔は痩せ衰えてしまっていて。帝国の困難を如実に表していることの比喩にもなり。後々アヘンが強大な清朝を滅ぼしたということが、中国民の記憶に焼きついた。その結果現在の中国国家である中華人民共和国では薬物罪については極刑で臨んでいる。
関連タグ
宣統帝・・・道光帝の家系の子孫。最期の皇帝。
易姓革命
キリスト教・・・太平天国の上帝洪秀全は国教をキリスト教と定めた。(彼独自のキリスト教)