嘉慶帝
(かけいてい・チャーシー・ディ)
生没:1760年11月13日- 1820年9月2日〈60歳〉
在位:1796年2月9日 - 1820年9月2日〈34年〉
清朝第七代皇帝。乾隆帝の息子。諱は永琰、即位後は顒琰。廟号は仁宗。在世時の元号の嘉慶を取って嘉慶帝と呼ばれる。乾隆帝退位から2年後に白蓮教徒による大反乱が起こった。清朝史などを紹介する時にはぶられやすい皇帝でもある。
政治の恐るべき劣化
乾隆帝政権末期からのワシンを初めとする官僚の腐敗・汚職と言った負の遺産を抱え、ワシン粛清後は宮廷内の混乱を恐れて他の者の罪を咎めず求心力を保った。官僚・八旗の堕落を態度を以って是正できず、即位直後から相次ぐ反乱を起こされた混乱収拾の為に「己を罪する詔」を発しても効果は薄かった。
乾隆帝の後始末
「白蓮教徒の乱」では9年に渡って鎮圧を指示、暴徒沈静に全力を傾けた。続く天理教徒の乱ではわずか80余名に紫禁城内に攻め込まれ劣勢に陥るが、後の道光帝らの活躍もあって鎮圧せしめる。江南で発生した蔡牽・朱濆の乱も鎮定に成功しており、極端に低い数値にはならない。相次ぐ乱の折には幾度是正を試みても改善が見られなかった八旗軍や漢族中心の緑営軍に見切りをつけ、地方の有力者たちを動員して武装集団を作らせた。これはのちの団練、郷勇の誕生を意味し、緑営軍に替わって治安維持に役立った反面地方が軍閥化するきっかけとなった。そして相次ぐ戦乱で国庫がカラになり銀の多大な流出や財政悪化を招き人口増による食料難で喘ぐ農民を更なる窮地に追いやった。しかし文化面では“乾嘉の学”と呼ばれた考証学が全盛期を迎えていた時代でもあり、国学が大きく向上した時期であった。しかしアヘンの流入が始まっており社会の停滞は免れなかった。嘉慶帝の治世は、ほぼ乾隆帝の後始末に始終しているような感じがあり、清朝の皇帝の中でも存在感は薄い方である。
その他
- 康熙・雍正・乾隆時代の肖像画に比べると、かなり画力が落ちている。特に奥行きがなくなった。