ヴィルヘルム・マルシャル
びぃるへるむまるしゃる
要項
ヴィルヘルム・マルシャル。(1886年9月30日~1976年3月20日)
軍人。上級大将。
経歴
1886年9月30日、アウグスブルクに誕生。
1906年、海軍兵学校に入校。
第一次世界大戦では戦艦クロンプリンツの士官、潜水艦UC47、UB105艦長を務める。
戦後はバルト海方面海軍参謀長、戦艦ヘッセン艦長、装甲艦アドミラル・シェーア艦長、軍令部作戦部長、スペイン内戦でのスペイン派遣艦隊司令官を歴任。
1939年9月1日の第二次世界大戦開戦時は小型戦艦部隊司令官の中将として迎えた。
10月、解任されたヘルマン・ベーム大将の後任として艦隊司令長官に就任。
11月21日、巡洋戦艦グナイゼナウを旗艦として、巡洋戦艦シャルンホルスト、軽巡洋艦ライプチッヒ、ケルン、駆逐艦三隻と共に装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーに対する圧力を減ずる牽制の為にヤーデ湾を出撃。通商破壊を行う予定の軽巡・駆逐艦と別れた後、23日、英補助巡洋艦ラワルピンディを撃沈。英艦隊の捜査網を掻い潜り、27日に帰港。
12月、大将に昇進。
1940年2月18~20日、グナイゼナウを旗艦として、シャルンホルスト、重巡洋艦アドミラル・ヒッパー、駆逐艦二隻を率いて通商破壊戦「ノルトマルク作戦」に出撃するも成果なし。
1940年6月4日、グナイゼナウを旗艦として、シャルンホルスト、アドミラル・ヒッパー、駆逐艦四隻を従え、ノルウェーの陸軍支援の為、ナルビク・ハールシュタの敵水上兵力・輸送船を攻撃する「ユーノー作戦」の為に出撃。
途中、連合軍軍が既にノルウェーから撤退中である事を察知し、その追撃に移行。
7日、タンカー、兵員輸送船、トローラー各一隻を撃沈。その後、アドミラル・ヒッパー、駆逐艦四隻を当初の命令の陸軍支援としてトロンヘイムに派遣。自身はグナイゼナウ、シャルンホルストを率いて空振りに終わった南の索敵から北の索敵へと移行。
8日、英空母グローリアス、駆逐艦アカスタ、アーデントを発見し、悉く撃沈する大戦果を挙げる。シャルンホルストがアカスタの雷撃で損傷。
(グローリアスが哨戒機すら上げていなかったのは、撤退に際して多くの飛行機、更には予定にない第46戦闘機中隊のホーカー・ハリケーン戦闘機八機(撤退部隊に積載する時間が無いので機体破壊の命と捕虜になる許可も得ていたが、それを潔しとせずに機体尻につけた砂袋を錘に着艦フックの代わりとしてグローリアスに着艦。陸上機なので折り畳み翼ではない)を収容して飛行甲板の使用が困難になっていた為とも言われる)
10日、旗艦グナイゼナウ、アドミラル・ヒッパー、駆逐艦四隻を率いてトロンヘイムを出撃するも既に万全の態勢を整えた英側の前に成果なく帰還。
7月、艦隊司令長官更迭。教育監察官に左遷される。
1942年8月、西部方面海軍司令長官に就任。
1943年2月、上級大将に昇進。
1945年5月、捕虜となる。
1976年3月20日、死去。
逸話
慎重かつ現場での状況に即した指揮を執るが、その慎重さと後方の指示よりは現状を優先して行動する点から、挙げた戦果に見合わない軍令部からの批判を受けている。
英補助巡洋艦ラワルピンディ撃沈した時は、英艦隊の大規模な包囲網の裏をかいてグナイゼナウ、シャルンホルストを無事帰港させ、英艦隊牽制の任を果たしたにも関わらず、ラワルピンディ撃沈後に英軽巡洋艦ニューキャッスルと遭遇しながらこれと交戦せずに撤退した事を軍令部作戦課長クルト・フリッケから消極的と批判されたばかりか、敵警戒網を打ち破って帰港するべきだというようなある種の無責任な批判もされている。
この批判に対しては、護衛もいない戦艦が魚雷を持つ敵小型艦艇と夜間に戦闘を交えるのは危険であり、英海軍はその損失に耐えられるが、ドイツ海軍は二隻しか居ない戦艦を損傷でドッグ入りさせるのは重大な問題だと述べている。
ユーノー作戦でマルシャルに与えられた指令は、海軍総司令官エーリヒ・レーダー元帥の基本命令では「ナルビク、ハールシュタの敵水上艦艇・輸送船を効果的に叩き、ナルビクの陸軍を支援する」というまだ柔軟なものであったが、軍令部と艦隊のパイプ役ともういうべき西部方面海軍司令長官アルフレート・ザールヴェヒターの命令は直接フィヨルドに進入して敵軍を撃滅せよ、という硬直したものであり、更にヒトラーの要望でナルビクの部隊と交代する為にトロンヘイムから北進中の陸軍部隊を英海軍より守るという命も軍令部から受けていた。
出撃前にレーダーと会見したマルシャルはハールシュタへの作戦と陸軍援護のどちらを優先するかを聞き、レーダーはハールシュタへの任務遂行がひいては陸軍支援となるとして同様に重要と述べたつもりであったが、マルシャルは同等の順位の任務とし、艦隊を分派して同時に果たせば良いものと解釈した。
またレーダーがハールシュタ周辺の見合う敵水上目標を攻撃する事もハールシュタでの任務であると匂わす発言をした事にザールヴェヒターの命令緩和の言質を得たとも理解していた。
出撃後、無線傍受により英国がドイツ巡洋戦艦に速力で対抗できる巡洋戦艦レナウン、レパルスを中心とした艦隊を誤報によりアイスランドに派遣している情報を西部方面海軍司令部からマルシャルは得たが、それでもノルウェーには戦艦一隻(誤報)、空母二隻、巡洋艦三隻、駆逐艦十五隻がハールシュタを中心に存在する事も伝わっており、狭い入り組んだ回避も容易でないフィヨルドに突入して、それらの兵力を相手にするのはドイツ艦隊を危険に晒す無謀以外のなにものでも無く、マルシャルは航空機によるハールシュタの偵察報告を待った。
その結果、偵察機の報告で発見された船団がすべて東でなく西に向っている事、ハールシュタでは砲艦から偵察機が射撃を受けただけだという報告から、連合軍が撤退中だと考えたマルシャルは船団攻撃を決意し、あくまでもハールシュタ攻撃が主任務であると命令する西部方面海軍の指示を無視した。
作戦終了後、レーダーはマルシャルが命令であるハールシュタ突入を果たさず作戦の基幹から外れた事。オイルタンカー、兵員輸送船を沈めるのではなく拿捕しなかった事。ヒッパーと駆逐艦を分離した事。グローリアス撃沈程度の為に貴重なシャルンホルストを損傷させた事などで公式ではないがマルシャルを非難した。
それに怒ったマルシャルは病気を理由に艦隊司令官を辞任した。
多大な犠牲を払う覚悟をしてまでレーダーがハールシュタ突入に拘ったのは、海軍が成果をあげないうちに戦争に勝利した場合の海軍の発言力低下を恐れての事だと言われる。
1942年に閑職から西部方面海軍司令長官に就任出来た事をマルシャルは、レーダーは認めないだろうがユーノー作戦での自身の誤りを認めたからだろうと認識していた。