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ネロ・カエサル・アウグストスの編集履歴

2014-09-21 19:30:21 バージョン

ネロ・カエサル・アウグストス

ねろかえさるあうぐすとす

5代ローマ元首 18歳で即位した。統治十二年のうち5年は非常に評判が良かったが、あとの7年はほぼ暴政。暴君の代名詞として一番有名なローマ皇帝であるとされる。 個人的には前治世5年はネロ、後半治世はルキウスという感じがする。

IMPERATOR NERO CLAVDIVS CAESAR AVGVSTVS GERMANICVS

本名LVCIVS DOMITIVS AHENORBARBVS
スペルルキウス・ドミティウス・アヘノバブルス
クラウディスの養子名ネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス
スペルNERO CLAVDIVS CAESAR DRVSVS GERMANICVS
皇帝名1ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス
スペルNERO CLAVDIVS CAESAR AVGVSTVS GERMANICVS
皇帝名2インペラートル・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス
スペルIMPERATOR NERO CLAVDIVS CAESAR AVGVSTVS GERMANICVS
生没37年12月15日 - 68年6月9日(31歳)
統治54年10月13日 - 68年6月9日(14年)

概要

5代ローマ元首 18歳で即位した。統治十二年のうち5年は非常に評判が良かったが、あとの7年はほぼ暴政。暴君の代名詞として一番有名なローマ皇帝であるとされる。


個人的には前治世5年はネロ、後半治世はルキウスという感じがする。


複雑な出生

元首ティベリウス治世下で執政職を歴任するアヘノバブルス家で生まれる、母は後に有名な悪女アグリッピナである。この執政アヘノバブルスはとても人間として最低の部類の人間で、粗暴であり女子供にも平然と暴力をふるう男であった。彼はAD40年に長年の不摂生がたかって死ぬ


AD41年に元首ティベリウスが崩御、次代にガイウス・カエサル・アウグストスカリグラ)がローマ元首を継承すると、元首カリグラはまっさきに不詳の執政であったアヘノバブルス家の一族を帝都ローマからさせ財産を没収した、この時にアグリピッナとルキウス(ネロ)はアグリッピナ側の家族の元へいた。その後元首カリグラが惨殺され、アグリッピナ側の伯父であったクラウディウスローマ元首に流れ即位した。


ルキウスからネロへ

元首クラウディウスがアグリッピナとルキウス(ネロ)が帝都ローマへ帰還が許すと、アグリッピナは元首クラウディウスの妻になることを承諾し、その時に息子ルキウス・ドミティウス・アヘノバブルスの名前も、ネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクスに改名した。


18歳で即位

ネロはクラウディウス家の養子となりそこで当時の著名な哲学者セネカから教育を受けることになる、これはおもに帝王学だった。AD51年にクラウディウス・カエサル・アウグストスが崩御すると、彼の直接の息子ブリタンニクスが後継者として挙がったが、彼はネロよりも年少だったので年上のネロが後任のローマ元首として選ばれた。ネロ18歳である。


黄金の5年

最初の五年は元首ネロが年少であるということから、セネカや皇帝親衛隊長官ブルスなど有能な人材にバックアップさせた。これによりネロの最初の5年間の治世はとてもうまくいったとされ黄金の5年間と言われる。

しかしこの頃から母アグリッピナは公の公務にも平然と顔を出すようになり、息子ネロは相当なストレスを感じていたようで夜な夜な親友のオトなどとともに夜遊びにふけっていたとされる。


アグリッピナは息子ネロと近親相姦を行っていたとされるが、定かではない。


後の8年間

黄金の5年間を過ぎたころよりネロは太り始めたという。この頃、母アグリッピナとの関係が最悪になった。


ブリタンニクス殺害

アグリッピナはネロにもう一人の息子ブリタンニクスにローマ元首を継承させるとネロを脅すようになった。これに対し元首ネロはブリタンニクスを晩餐中に毒殺することで答えた。


オクタウィアと離婚しポッパエナと結婚

そして12歳のころに形式的に結婚していたネロの妻オクタウィアと離婚し遠島を申し渡した、オトの妻であったポッパエナ夫人と結婚した。これはオトを無理やりポッパエナと離婚させたと言われている。直後オトはルシタニア総督へ出世している。


母アグリッピナ・オクタウィアを粛清

元首ネロはアグリッピナを殺害を決行したが一度目は失敗した、その後命の危険を感じた母アグリッピナは宮殿から退去した。ネロはその後母と仲直りをしたいと申し出アグリッピナを宴会に出席させた、しかしネロはそこで母アグリッピナを殺害した。その後遠島を申し渡したオクタウィアに自殺を命じた。


セネカを粛清

この頃少し前に補佐を引退した親衛隊長官ブルスが老衰で亡くなると、同時にセネカも引退を申し出ていた。その後元首ネロは引退したセネカに自殺を申し渡した。


ローマ大火

AD64年に帝都ローマで起きた不審火が大火災に発展したこの時療養中だった元首ネロはあわてて引き返し、火災場で陣頭指揮を行ったと言われる。この時の陣頭指揮とその後の再建政策はかなり優秀なものであったらしく帝都ローマは素早く前より機能的に再建された。


しかしこの時の火災の犯人がキリスト教徒だというデマがながれ元首ネロはそれに合わせて帝都ローマのキリスト教徒を見世物にして大虐殺したという『人間松明』『ローマ十字』『串刺し』『食い殺し刑』などが有名である。この時にキリスト十二使徒の人地聖ペテロも処刑されたという。ペテロは後のカトリック初代ローマ教皇とされた。


ネロ祭

ローマ大火から再建された帝都ローマで、ネロは古代ギリシャオリンピア祭をまねたネロ祭を開催し、元首ネロ自ら選手となり競争した。しかしこれは完全に八百長試合であり、元首ネロが出た競技では、ネロが敗北した結果となっても、ネロが全て勝利し。結果的にネロ祭りの月桂冠を戴冠したのはネロ本人であった・・・。


※ネロ祭り自体は59年から5年おきに開催されていたようである


舞台俳優

AD65年から数回、ネロはお付きの皇帝親衛隊少年団を引き連れ、属州ギリシアへ赴き、そこで舞台劇を開催した。彼は歌い、劇の俳優を演じたりした。ただ彼に声援を送る掛け声は少年団が仕切っていた。


ローマ市民の暴動・ネロ自殺

ローマ市民は上記のような興業を行っていくたびに、重税が課されることに我慢の限界が来たようである。属州ガリアでの暴動を契機にローマ帝国属州並びに帝都ローマでのネロへの暴動が頻発した。


そして68年にとうとうセナートスの議会でも元首ネロを国家の敵とする決議が採択されてしまった。次にヒスパニア総督ガルバとルシタニア総督オトが軍団をまとめ帝都ローマへ進軍を開始した。


彼は少年奴隷のスポルスいか奴隷数人とローマを脱出した。彼自身はローマ近郊の邸宅で自害したとされる。


享年31歳


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