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概要

本項では戦艦として活躍し、その後練習艦に改装された初代について解説する。

日本海軍の前弩級戦艦で、敷島型戦艦の一番艦。1896年の第10議会で可決した第二期拡張計画により建造された4隻の戦艦の一つである。船体形状は典型的な平甲板型船体であり、凌波性を良くするために乾舷を高く取られている。艦首には未だ衝角(ラム)が付いている。

1900年1月26日に竣工され、同年4月に呉市に到着する。速度は18.0ノットと金剛型戦艦「金剛」より遅いものの、本艦特有の「アームストロング 1898年型 30.5cm(40口径)砲」は、重量386㎏の砲弾を仰角15度で最大射程13,700mまで届かせられる性能を持っていた。これを新設計の砲塔に収めた。この砲塔は左右150度に旋回でき、砲塔の砲身は仰角15度・俯角5度の間で上下できた。砲弾の装填機構は固定角装填形式で、どの旋回角度でも毎分1発の間隔で発射できた。

艦名の由来

艦名の由来は、日本の美称のから来ている。和歌では「やまと」の枕詞として使用され、和歌を「敷島の道」と称することもある。

戦艦にも拘らず旧国名ではなく国の美称の一つと言われているのは、この時代艦艇による命名方法が曖昧であったためである。

その名称は、海上自衛隊のしきしま型巡視船1番艦である「しきしま(2代目)」に受け継がれている。

この敷島と言う名、冒頭でも紹介したとおり大日本帝国海軍~海上自衛隊で2代にわたって使用されているが、3代とも海外由来の設計であった金剛とは違い本艦は外国製、2代目は国産製である。

  • 初代:イギリス・テムズ鉄工造船社製弩級戦艦。
  • 2代目:日本・IHI東京工場製巡視船。

戦歴

1904年に第1艦隊第1戦隊所属で日露戦争に参加される。2月9日から旅順口攻撃、旅順港閉塞作戦に参加するが、旅順港閉塞作戦は三次に亘って失敗に終わった。その後は黄海海戦にも参戦し、勝利に貢献された。1920年に起きた尼港事件にて沿海州沿岸警備に従事された。

二度にわたる改装

1921年9月1日に海防艦に改造し、第一次世界大戦後のワシントン海軍軍縮条約により兵装、装甲の全てを撤去し、練習特務艦となり佐世保港に繋留され、練習任務や応急対策の実験などに使用された。

終戦

終戦時は推進器が撤去され佐世保海兵団所属の練習艦として相ノ浦に無傷で繋留されていた。戦後の1947年に佐世保で解体され、その生涯を終えた。

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戦艦敷島の編集履歴2014/10/16 01:49:36 版