西郷隆盛にして「おいは官軍に巻けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と言わしめた難攻不落の名城。
概要
熊本市北区植木町の中心から南に伸びる舌状台地(京町台地)の尖端、茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城。現在の地名では中央区の本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たる。
中世に千葉城、隈本城が築かれ、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて加藤清正がこれを取り込み、現在のような姿の熊本城を築いた。日本三名城の一つとされ、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、一大名の城としては「日本一」であるとの評価高い城である。
明治10年(1877年)に起きた西南戦争において、熊本城に籠もった官軍は大部分の建物を2月に起きた原因不明の火災で失いつつも52日間の籠城の末、辛うじて西郷隆盛率いる薩軍を撃退することに成功した。(焼失原因は官軍がみずから火を放ったとも、薩軍が火を放ったとも言われている)
現在では、サクラの名所としても知られており、日本さくら名所100選に選定されている。
構造
城郭の形式は、梯郭式平山城。広さは約98万平方メートル、周囲は約5.3キロメートルある。南西の古城と北東の千葉城を取り込み、それらを出丸としている。
南東を流れる白川を外堀に見立て、これに合流していた坪井川・井芹川を切り離して内堀としているため城内にある水堀は飯田丸の西にある備前堀1つのみである。本丸は丘陵の東の最も高い部分に造り全面石垣積みとし、西へゆるやかに下る二の丸・三の丸は重点箇所のみに石垣を築き、経費を抑えた。搦手口のある北は他の方面に比べ、内郭に近接しているので一般的に弱点とされるが、断崖と空堀(現在は道路)に仕切られており突破は困難である。これに対し西は開けており、多少なりとも傾斜も緩い。そのため、西出丸・二の丸・三の丸で区画し防備を固めているが、城郭西端の先に独立した小丘として段山(だにやま)がある。兵力の関係で総構えを放棄した西南戦争ではこの段山を巡る戦いが行われた。
武者返し…熊本城の代名詞ともいえる石垣。この雄大な石積みは裾野が広く、上り始めは緩やかな勾配が保っているが、上っていくにしたがって急勾配になっていき、最後は太刀の峰のように反り返って攻め入った兵の侵入を許さないよう工夫されている。