別名「釜山城」または城主の名をとって「別所城」ともいう。
有馬温泉に通じる街道沿いに築かれた城。形式は平山城になる。
美嚢川の南岸の台地を始め、現在市街地となっている平地に至るまで城郭化され、無数の郭が張り巡らされて鉄壁の防御を作り出している。中国攻めの前にも本城は近畿地方の政争に巻き込まれる形で幾度となく攻められ、落城しており、その度に増築され大規模化・堅城となっていった。
歴史
三木城の城主として治めていた別所氏は播磨国の守護大名・赤松氏の家臣であり、同じく家臣である浦上氏の次に有力な一族として播磨東部辺りに勢力を誇っていた。別所氏は京都など中央の戦乱に巻き込まれる形で細川氏などの近畿の大名と争い、主家を下剋上して戦国大名化した浦上氏とも戦った。細川氏に城を落とされたり尼子晴久に攻められたり三好長慶に屈服したりと、幾度となく強大名の猛威を受けたがなんとか乗り越え、段々と勢力を増していく。織田信長が近畿地方を制圧すると、それに従って信長の加護を受ける。周囲の大名を倒していき東播磨を手中におさめた。
しかし、対毛利氏への中国遠征が開始されると別所長治は突如として信長に反旗を翻した。この裏切りの理由は未だに不明である。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は三木城を包囲、各支城や別所方の城を落城させながら三木城を孤立させていき、物資を徹底的に絶つ事で兵糧攻めを行った。
長治ら別所軍は懸命に闘うが力及ばず、秀吉からの降伏勧告を受け入れ開城。長治ら別所一族は切腹し果て三木城は落城した。
城は豊臣政権下でも使用され直轄地として城番が置かれた。天下が徳川家康の手に渡った後は池田輝政のモノとなったが、やがて一国一城令によって廃城となった。
現在
盛んに発掘調査が行われた。高台上の本丸部分は公園となっており、その他にも色々な建物とその敷地内となっている。各郭部分は所々遺構もあるが市街地化が激しく町に飲み込まれている。
近くのお寺にはゆかりの品や墓が存在している。