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プリンス自動車

ぷりんすじどうしゃ

プリンス自動車はかつて日本に存在した自動車メーカー。日産自動車に吸収合併された。

この会社は昭和22年に電気自動車を製造する会社として設立された(社名は異なる)。のちにガソリンエンジン搭載自動車に切り替え、その後プリンス自動車工業と名称を変更する。エンジンを製造していた富士精密工業と合併、そちらを存続会社とする。その後プリンス自動車工業と再度変更したものの、販売不振及び官僚の陰謀によりこの会社は日産に吸収合併され、その生命を終了させた。

 この会社は中型乗用車に定評があり、また、レースに関しても定評があった。

会社の成り立ち

 この会社のもととなったのは立川飛行機(通称赤とんぼと呼ばれる九五式一型練習機一式双発高等練習機などを開発した会社)からわかれた会社である。

電気自動車

 そのうちの電気自動車部門を源流とする会社であり、高速機関工業(戦前から自動車、特にトラックを製造していたメーカーであるものの、その後の技術革新についていけず昭和30年に倒産し日本内燃機と合併し、紆余曲折を経て日産工機という会社になった)からボディの技術提供を受けている。その時の名称は東京電気自動車であった。

 その後ブリヂストンの社長の出資を受け、電気自動車のブランドであったたま電気自動車に社名変更。

 この会社の製造していた電気自動車は日本の電気自動車の中では群を抜いて出来がよかったとされる。

自動車への参入

 朝鮮戦争による資源(特にバッテリーに利用する)の高騰により電気自動車が採算に合わなくなったため、富士精密工業(中島飛行機GHQによる財閥解体により分割された企業の一つ、このためにブリヂストンの社長が株式を銀行より引き取った、のちに玉自動車と合併することになる)のエンジン供給を受けることにし、ガソリンエンジン自動車に転換することにし、昭和26年に社名もたま自動車に改めた。

 昭和27年、その自動車が完成した。当時皇太子の立太子礼と重なったため、その車両プリンスと命名した。さらに社名もプリンス自動車工業と変更した。なお、先進的な設計であり、小型トラックは好評だったものの、乗用車は無謀ともいえる突貫的な販売計画であったためトラブルが発生したといわれる。

 昭和29年、販売子会社プリンス自動車販売を設立、同年プリンス自動車工業と富士精密工業が合併、富士精密工業が存続会社となる。

 プリンスセダンスカイライングロリアなどを出しつつ、小型車の開発も行う(これは市販されることはなかった)。

 昭和36年、社名を再度プリンス自動車工業と変更し、ミシンなどを製造していた工場をリズムフレンド製造として分社化(この会社は紆余曲折を経て、自動車部品製造メーカー。THKリズムとなる)。

 この後、スカイライン・スポーツをイタリア人にデザインさせたり、グロリア・スーパー6にSOHCエンジン(1本のカムシャフトがシリンダーヘッドに置かれたエンジン)を搭載したりするなど、革新的な動きがあるものの、それは利益に結びつかなった。

 また、昭和38年から行われるようになった日本グランプリ(昭和38年から昭和45年まで行われた市販車を改造した車両で行われたレース、結局自動車の低燃費化の影響を受けTOYOTA日産の不参加により昭和45年に終了)に出場するようになった。第一回こそ未改造車で出場し、8位だったものの、昭和39年以降はスカイラインGTR380といった車両で上位を独占するようになった。

会社の終焉

 しかしながら経営状況は思わしいものではなかった(プリンス自動車工業は黒字に見えていたもののそれは販売子会社であるプリンス自動車販売を大赤字にしたうえでのものであった)こと、当時の政府による自動車業界再編計画(日本には中小の自動車メーカーが多すぎるため一つか二つ程度にまとめようとした計画、実際これは間違いであるとあとからわかった)のため、昭和41年に日産に吸収合併され、スポーツカー製造メーカーとしての独自性を失うこととなった。

その後

  • この会社の所有していたブランドは日産に引き継がれた。
  • 現在ブランドとして日産で生産している車種はスカイラインのみである(クリッパーはOEM、かつ21世紀に復活させたものなので除外)。
  • 販売子会社であったプリンス自動車販売は日産プリンス自動車販売として昭和61年まで現存していた。
  • 中島飛行機の流れを引く宇宙航空事業を所有していたが、これは日産に引き継がれた。ただし、ルノーによる買収と同時に石川島播磨重工業の傘下企業、IHIエアロスペースとなった。
  • レーシング部門は現存させ、GTレースなどで活躍した(元のワークス・チームはサファリラリー中心となったが、こちらがメインである)が、昭和49年のオイルショックを機に活動を停止した。

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