文政12年9月27日(1829年10月24日) ~ 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)
通称半平太、号は吹山(後に瑞山)、諱は小楯。また勅使の供の際に姉小路公知から与えられた変名に柳川左門もある。
安政3年(1856年)8月、ペリー来航による海防警備のため藩の臨時御用で江戸に上り、同時期に鏡心明智流の士学館(桃井春蔵の道場)で剣術修行に励む。武市の人物を見込んだ桃井は皆伝を授け、塾頭として道場の風紀の取り締まりを一任した。同時期に坂本龍馬も江戸の桶町千葉道場(北辰一刀流)で剣術修行を行っている。安政4年(1857年)9月、祖母の介護のため土佐に帰国。安政5年(1858年)に一生二人扶持の加増を受け、土佐藩の剣術諸事世話方を命じられる。
安政6年(1859年)2月、一橋慶喜の将軍継嗣擁立運動をしていた15代土佐藩主・山内豊信(号:容堂)が大老・井伊直弼によって隠居させられ、同年10月には謹慎を命じられる(安政の大獄)。これによって藩内で幕府に対する反感と山内豊信の名誉回復に対する機運が高まった。
文久元年(1861年)長州の桂小五郎や久坂玄瑞、高杉晋作、薩摩の樺山三円ら他藩の尊王攘夷派と交流し、薩長土三藩が挙藩勤王体制を整えた上での朝廷擁立運動を提案。8月に土佐勤王党を結成する。加盟者には坂本龍馬や中岡慎太郎らがいた。
山内容堂の弟らや尊王攘夷派の上士と協力し、参政・吉田東洋を暗殺後土佐の藩論を動かし16代藩主・山内豊範を擁して上京、土佐は朝廷から京都警護の内勅を受ける。
文久年間は他藩応接役として朝廷擁立運動の周旋や天誅の指揮で活躍。文久2年(1862年)10月には攘夷督促の勅使を任された姉小路の雑掌となり江戸へ随行し、江戸城で将軍・徳川家茂にも拝謁した。
しかし翌年8月18日の政変で尊皇攘夷派失脚後は投獄、慶応元年(1865年)閏5月11日「主君に対する不敬行為」という罪目で切腹を命じられる。
辞世の句は、「ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」。享年37歳。
桂小五郎や久坂玄瑞といった当時の一級の人物からも非常に高く評価されており「人望は西郷、政治は大久保、木戸に匹敵する人材」とも言われた。また、剣術や芸術の面でも非常に秀でていた。
また、武市が生きていれば明治政府での土佐の立場はもっと上がっていたとされ、容堂は武市を殺したことを死ぬまで悔やみ晩年病床にあったときは「半平太ゆるせ、ゆるせ」とうわ言を言っていたとされ、後藤象二郎と板垣退助からは「武市半平太を殺したのは、我々の誤りだった。」と武市の妻・富子に対し謝罪の言葉があったとも伝わる。
逸話
- 喜怒が滅多に顔色に表れず、人格は高潔で「一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった」といわれている。
- 富子とは非常に仲睦まじい間柄で、妻以外の女性とは関係を持たなかったと言われている。また、富子は武市が投獄されてから死ぬまで夫と苦労を共にすべく板の間で寝起きし、夏は蚊帳を吊らずに過ごしたとも伝わっている。
- 投獄後、牢番達から非常に慕われ、季節の花々やネズミ除けの蛍約300匹を差し入れられるなど、何かと細やかな心配りを受けた。
- 腹を横三文字に切る「三文字切腹」を行った。
創作の逸話
門弟の岡田以蔵を天誅で利用した、獄中で毒殺未遂を恨んだ以蔵に自白されたという逸話が有名だが、実際の天誅は集団リンチであり、以蔵は拷問で即座に吐いていることが当時の書簡記録で確認されていることから、いずれも創作である。