鎌倉幕府将軍家の家臣の呼称。鎌倉幕府成立にあたって将軍と主従関係を結んだ者を御家人・鎌倉殿御家人・関東御家人などと称した。御家人になるには名簿(みょうぶ)の捧呈および見参(けんざん)の礼が必要だったが、当初からこの儀礼はしばしば省略され、将軍家下文(くだしぶみ)の下付や西国派遣の使者の奉書下付、守護の交名(きょうみょう)注進や大番役勤仕などが、御家人身分認定の根拠とされた。各御家人の所領規模は大小さまざまであるが、幕府との関係では身分的に同格であった。(山川出版・刊『日本史広辞典』)御家人と呼ばれた武士の数は一ヶ国で10名前後、全国で数百人に過ぎなかった。御家人以外の武士には、北条氏得宗家に仕えた「御内人」をはじめとして御家人に仕える陪臣も当然多かったが、公家や寺社に仕えて幕府の命令に従う義務のない武士もまだまだ多かった。
室町幕府は御家人制度を採用しなかったが、一種の身分・家格を示すものとして御家人の称は用いられた。なお、戦国武将の中には家臣を御家人と称したものもあった。(山川出版・刊『日本史広辞典』)
江戸幕府では諸大名に仕えず将軍家に直接仕える所領一万石未満の武士のうち、将軍に直接謁見できない家格(御目見以下)の武士を指す。一般に所領も少なく乗り物や馬に乗る権利もないなど、(数ヶ国の守護ですら御家人であった)鎌倉幕府とは異なって中下級武士に相当する点に注意が必要である。
- 切米取り(江戸時代)…下級武士の中でも、最下級にあった武士・御家人たちは知行となる土地を与えられず、「蔵」に収められた米を与えられるの主流だった。彼らは、毎年、自分に与えられる米の収穫高を書いた「切符」のようなものを与えられ、米をあつかう商人に「米」を受け取りに行くのである。(まぁ、大概の場合、「米」を現金に換える武士が多かったのだが・・)。時おり、時代劇で見られる「三十俵二人扶持」などの扶持を与えられる下級武士がこれにあたるのだが、当然ながら生活は苦しくアルバイトにいそしむ武士が多かったらしく、中には「武士」としての身分を富裕な町人に売り払う者もいた。(有名どころでは坂本竜馬の実家は郷士株を勝っており、逆に岩崎弥太郎の父は郷士株を売り払っている)