Shogunate(ショウグネート)
幕府
幕府は征夷大将軍が率いる武家政権そのものやその政庁を指す。
幕府行政執行部はもともとは朝廷の有事の将軍職の最高格である征夷大将軍の居館・居城に置かれていた。全国的な武家政権としては史上鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府が存在し、中世及び近世における日本の軍事封建専制政権は幕府である。ただし、平氏政権・織田信長・豊臣秀吉による短期的な政権は全国的な武家政権であるが、率いているのは将軍職には就いていないため一般に幕府とは呼ばない。
幕府は「独裁政権」ではないとする解釈が多いが、根本的に征夷大将軍という帝位についた王朝型政権に江戸幕府にいたって完成を見た。「江戸幕府は複数の家老による集団指導体制」だから独裁ではないとしても、基本的に集団指導体制という代物は古くは古代ローマ居和国の国会にあたる元老院議員の集団独裁体制があり、もともとはレーニンが作った共産党統治の方法論として登場しており、一握りの執行部(中央委員会)と党員すべてが『全会一致』で物事を問答無用で進めて行くという行動様式をとる。よって集団指導体制だから独裁ではないというのも無い。
独裁という定義が当てはまるかどうか基準は「最高権力者の存在が濫りに出てこないこと」や「正当な批判運動・行為」をすると、死を免れることが出来ないなどが存在が普通の社会であった場合、基本的にはすべての武家政権・幕府はすべて当てはまる。広く書くと「朝廷(昔の日本政府)」も基本的に同じである。
幕府は鎌倉・室町時代は衰えたと見られていた朝廷(昔の日本政府)と役割を分担しながら、しかし確実に統治の主導権を奪っていったが。後醍醐天皇など強力な指導力を持った独裁天皇が公家を将軍に天皇軍団を組織し統治権を奪い返したりすることがあった。さらに後醍醐天皇は帝政中国型の『律令制大日本帝国』的な絶対天皇親政国家復活に向けた刷新を一応行うなど(建武親政)必ずしも『幕府・武家側』が優位になっていったわけではない。朝廷と幕府という二大勢力が日本の覇権をめぐって争っていた感じがある。
室町幕府までは、なんとなくいろいろ一悶着あっても朝廷下の行政機関という感覚があった用に思うが織田・豊臣の尾張帝国政権の版図を得た後の徳川家康の権力が登場した。ここで家康は別に将軍につく必要は無かったが、あえて朝廷の面子を立てる形で幕府将軍を選んだ。しかし、江戸幕府政権はかつての武家政権・幕府政権と異なり完全に朝廷側の政治を払拭するだけの権力と法治力と暴力が存在していたので265年間敵無しの事実上『独立政府』だった。
幕府という代物は半永久的に変わる事のない朝廷政権になんとしても変化を齎したい一身の日本独自の苦肉の策だったようにも思う。実際に諸外国に幕府という騎士(武士)階級による政府は存在せず、外国は幕府と朝廷の二重権力が存在していたという風に解釈せざる得なかったようだ。
語義
由来は中国の戦国時代、王に代わって指揮を取る出先の将軍が張った陣地を「幕府」と呼んだことに由来する。「幕」は「帳幕」・「天幕」を意味し、「府」は王室等の財宝や文書を収める場所、転じて役所を意味する。それが日本に来て近衛大将(称号)のになり、幕下あるいは「柳営」ともいった。※近衛大将と征夷大将軍は関係が無く、幕府のように武家軍事権力が登場すると近衛大将は力を失った朝廷の形式の将軍職となった。
転じて征夷大将軍の遠征時の本陣(本営)を指した。戦時の司令部であった場所を平定後も政策発信地とし、実質的に武家政権の政庁となっていった。征夷大将軍を中国風に覇者とみなし、覇者の政庁の所在地として「覇府」とも呼ばれる。「幕府」の名称がすなわち中央政庁を表すようになったのは、藩と同じく江戸時代中期以降で朱子学の普及に伴い、中国の戦国時代を研究する儒学者によって唱えられた。「鎌倉幕府」や「室町幕府」という言葉はこの時代以降に考案されたもので、当時の人々は鎌倉や室町の中央政庁を「幕府」と呼んだことはなく、それぞれの初代将軍が「幕府を開く」という宣言を出したこともない。
御所
天皇など特に位の高い貴人の尊称または邸宅を「御所」という。
転じて皇族や大臣、将軍の邸宅を「御所」といい、そのような高い身分にある者、重職に就いた者を「御所様」と呼ぶのも、もちろん、そこからきたものであった。
当然ながら、それは幕府を開いた征夷大将軍も例外ではなく、足利将軍家の邸宅を「花の御所」といい、将軍職を退いた徳川家康、徳川秀忠、徳川家斉が「大御所様」と呼ばれるのもそこからきており、権力中枢に就いた者の代名詞ともなった。