岩手県生まれで、海軍兵学寮六期卒。
明治31年以後、海軍次官・軍務局長などを歴任し、明治39年から大正3年まで海軍大臣。
大正3年のシーメンス事件で予備役編入され、大正8年に現役復帰し、昭和2年末まで朝鮮総督の任に就いた。
朝鮮統治においては儒教的教養が統治に多く利用され、従来の〈武断政治〉に代わる〈文治政治〉の下での朝鮮統治体制の強化を進めた。
総督府赴任直後から、反日感情が強く近代的教養を受けた儒生の親日化を重視し、東洋道徳の発揮という名目で組織された「大東斯文会」「儒道振興会」などの親日団体で融和を計りと意思の疎通を全うすることを是とした。
昭和2年にはジュネーブ海軍軍縮会議全権大使、以後再度の朝鮮総督を経て、昭和7年の五・一五事件後の首相として西園寺の命を受け挙国一致内閣を組織し、昭和10年末に内大臣に就任して政務に携わったが、翌年二・二六事件で〈君側の奸〉として殺害された。