概要
ブラウザゲーム「刀剣乱舞」において織田信長を元主とする宗三左文字・へし切長谷部・不動行光・薬研藤四郎らが描かれた作品につけられるタグ。
ゲーム内では、宗三左文字とへし切長谷部、不動行光は元主である信長に言及し、それぞれ複雑な思いを抱いていることを窺わせる。現在作中で織田信長に言及しているのはこの3振りのみである。
へし切長谷部・不動行光を部隊に入れて織豊の記憶 本能寺ステージへ出陣すると、2振りの織田信長に対する回想を見ることができる。
2016年2月不動行光が織田信長の愛刀として実装され、内番手合わせの特殊台詞にて宗三左文字とへし切長谷部の他に薬研藤四郎が信長所有であることが示唆された。
2016年5月公開の舞台『刀剣乱舞』にて織田信長を元主とする刀剣として名前が上がっているのは宗三左文字・へし切長谷部・不動行光・薬研藤四郎の4振りである。
二次創作では、一説に信長が所有したとされる燭台切光忠・鶴丸国永・日本号や、家臣の刀とされる刀剣も含めて「織田組」とすることもある。
ゲーム中の設定以外では、織田信長が生前所有したとされる刀・家臣のものとされる刀の数が多く
今後も関連する来歴の刀剣が実装または判明する事が予想されるグループタグである。
タグ付けに際する注意
このタグは腐向けタグではない一般向け作品にも使用されている。腐向けが苦手な人もいるため、キャプションやタイトルやタグに腐向けであることを記載するか、刀剣乱腐のタグを併用するよう意識したい。
構成メンバー
現在(2016年3月)確認されているのは、以下の4名。
No.81 宗三左文字:打刀
作中では織田信長を「魔王」と呼び、信長が刻印を入れてから今の自分があると発言している。
信長が戦勝の記念に入れた刻印が左胸元に蝶と髑髏をモチーフとした刺青のようなもので
再現されており、刺青の中には「第六天魔王」と記されている。
【織田に関するエピソード】
信長の愛刀の1振りとして今も伝わる刀である。
信長が永禄三(1560)年、桶狭間の戦いで義元に快勝した際分捕った左文字の太刀。
この戦いで織田家存亡の危機を脱した信長はよほどうれしかったのか
この刀を磨上げ、茎に「永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀 織田尾張守信長」
と名を切らせている。
この事について『信長公記』にはこう記されている。
『今度分捕に、義元不断さされたる秘蔵の名誉の左文字の刀召し上げられ、
何々度もきらせられ、信長不断さされ候なり。』
何度も試し切りをさせたところ切れ味が良かったので、常から腰に差してしまうほど
信長のお気に入りになってしまったと言う事らしい。
信長の最期となる本能寺の変まで手元に置かれたとされる。その後については
1)炎に巻かれ、焼け跡から秀吉が見つけ所蔵した説
2)枕席に侍っていた神官の娘が持って逃げ出し、後に秀吉に献上した説
などがあるが、刀剣乱舞の宗三左文字は2度焼けているため1)の説が採用されている可能性が高い。
明治13(1880)年に徳川家より奉納され、現在信長を主祭神とする建勲神社所有となっている。
No.118 へし切長谷部:打刀
作中では信長を「そういう男」と表することが多く
へし切と言う名前を信長の狼藉が由来だから呼ばないで欲しいと言う事や
命名までしておきながら家臣へ下げ渡された事を言うなど信長を意識した発言が見られる。
【織田に関するエピソード】
信長の愛蔵ただならぬ1振りとして伝えられる刀。
『享保名物牒』という書物に
『信長が無礼を働いた観内という茶坊主を、隠れるため潜り込んだ膳棚ごと圧し切ってしまった』
という名付けの由来とすさまじい切れ味を示す逸話が残っている。
しかし同様の逸話が記されている『黒田家御重宝故実』には棚を切ったという記述は見られないため、上記の説は有名ではあるが誇大して書かれている可能性がある。
刀剣乱舞のへし切長谷部は刀帳の台詞から棚ごと圧し斬った説を採用していることが分かる。
天正三(1575)年、信長が中国征伐の献策を賞し黒田孝高(如水)に下賜したとされる。
打刀に磨上られたのは黒田家に渡った後、信長所有時は大太刀または太刀であったとされる。
No.120 不動行光:短刀
自身が織田信長公がたいそう愛した逸品である事を誇りにする反面
主を救えなかった事を悔やみ自分を「ダメ刀」と称している。
作中で織田信長の事を「信長公」や「信長様」(回想時のみ)と呼ぶ。
【織田に関するエピソード】
(刀剣乱舞公式Twitterより引用)
織田信長の愛刀。
信長は酔うと膝を叩いて「不動行光、つくも髪、人には五郎左御座候」と歌ったという。
森蘭丸が拝領、後に本能寺の変で焼け身になったとされる。
No.49 薬研藤四郎:短刀
【織田に関するエピソード】
信長が愛刀として身につけたとされる短刀。
『信長公記』元亀四(1573)年の項に名前を見ることができる。
『正月八日、松永弾正、濃洲岐阜へ罷り下り、天下無双の名物、不動国行進上候て、
御礼申し上げらる。以前も、代に隠れなき薬研藤四郎進上なり。』
「以前も」というのはこれより前に松永久秀から世にも名高い薬研藤四郎が贈られているということである。
直接名前は出ていないが、同じく『信長公記』には
『永禄十一年 松永久秀から九十九髪茄子が進上された』とあるのでこの時に進上されたとすれば
薬研藤四郎が織田信長の元に渡ったのは永禄十一(1568)年となる。
また『享保名物牒』には「元亀四(1573)年に献上された」と書かれている。
天正十年六月二日(1582年6月21日)、本能寺の変にて焼失したとされる(『享保名物牒』)が
この時本能寺より前、坂本城より託され豊臣秀吉に献上された説など諸説あり定かではない。
関連する刀剣
信長が所有していた可能性がある刀剣
No.73 燭台切光忠:太刀
【織田に関するエピソード】
信長は光忠の豪華な華やかさを愛し、25振かそれ以上とも言われる数の光忠を集めていた。
この燭台切もその内の一振りだったのではないかとされるが、根拠となるものは存在せず
伊達政宗より前の持ち主は定かではない。燭台切という号は伊達家に伝わって以降の物である。
No.130 鶴丸国永:太刀
【織田に関するエピソード】
織田信長が所有し、御牧勘兵衛景則に与えたとされる。
No.136 日本号:槍
【織田に関するエピソード】
公家から足利義昭に下賜されたのち織田信長が所有し、その後豊臣秀吉に伝わったとされる。
信長を介さず足利家から豊臣家に伝わったとする説もある。
日本号という号が与えられたのは豊臣家に伝わって以降とされる。
作中の回想にて信長を「右府様」と呼ぶが、信長が所持したかどうか等関係性は明らかにされていない。
家臣の刀とされる刀剣
No.19 にっかり青江
信長の重臣である柴田勝家、丹羽長秀が所持したとされる大脇差。後に豊臣秀吉に伝わる。
No.27 鯰尾藤四郎
織田信長の二男であり家臣の北畠信意(後の織田信雄)が所持していたとされる脇差。
後に豊臣秀吉に伝わる。
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