概要
熊本県熊本市にある城。別称にある銀杏城とは、城内に非常食用(銀杏の実)が取れるよう多くのイチョウが植えられていることからきており、特に天守閣に植えられている大銀杏は籠城に備えて加藤清正みずからが植えたといわれている。
中世に隈本城があった丘陵(茶臼山)に、より大きな城として、加藤清正により築城された。
町割りを定めるにあたって、清正は道路を城を攻めにくいように曲げており、このことが判明したのは明治時代にドイツの軍人が指摘したからであって、現在にいたっても熊本市に渋滞が多い原因であるとされている。
明治維新後も官軍が常駐していたが、主な建物の多くは西南戦争(明治10年)の際、本丸の建物の大半が原因不明の火災により焼失した。昭和35年に天守閣が、残されている文献をもとに平成19年に本丸御殿がそれぞれ再建されている。(火災については、官軍がみずから火を放ったとも、西郷隆盛率いる薩軍が火を放ったとも言われている)
- 櫓…多数の櫓が今でも残っており、石垣の上に延々と並んでいるのは見ごたえがある。曲輪の内側から見ると、ちょっと拍子抜けかもしれない。江戸時代の櫓で現存する最大の櫓である宇土櫓は、小さめの城の天守くらいの大きさがある。また、築城されたころの建物には、非常食として壁に味噌をしみ込ませた芋がらをひもにして壁に塗りこめていたと伝えられている(これは熊本城に限らないが)。
- 武者返し…熊本城の代名詞ともいえる石垣。この雄大な石積みは裾野が広く、上り始めは緩やかな勾配を保っているが、上っていくにしたがって急勾配になり、最後は太刀の峰が反り返っているようになっており、攻め入った兵が侵入しにくいよう工夫されている。
- 大天守・小天守…西南戦争で焼失した、大小2つが並んでいた天守。現在は外見を再現して、内部では熊本城に関係する展示をしている。本丸御殿とも接続していた。
- 宇土櫓…肥後本土南部を領していた宇土城主・小西行長は関ヶ原の戦いにおいて西軍側について敗北後処刑されたが、北半国を領していた清正は肥後一国を領することになり、多くの小西旧臣を召し抱え、行長の居城・宇土城を廃城とすることとなった。このとき、宇土城から移築されたのが宇土櫓である――と言われていたが、解体修理の際に移築の跡が認められなかったため、実際には「宇土にいた小西旧臣が管理する櫓」という理由で命名されたのではないかという。華美な装飾がいっさいないこの櫓は、前述の西南戦争による焼失を免れ、質実剛健な戦国時代の遺風を今も残している。
- 本丸御殿…藩主が普段の生活を営むための建物である。武骨な熊本城の櫓や石垣とは異なり豪華絢爛な内装で飾られており、藩主の上位に立つものを迎えるための「昭君の間(王昭君の絵を飾っている)」が作られている。一説には「昭君」とは豊臣秀頼のことであり、万一、大坂城が落ちた場合、清正はこの城(熊本城)に秀頼を迎えて徳川方の軍勢と一戦をまじえるつもりではなかったかと言われている。本丸への主要な通路は、御殿の下の地下通路になっている。
- 井戸…城内には底の深い多くの井戸が掘られており、籠城戦になった場合、城兵が水に困らないよう工夫されている。その吸い込まれるような深さは城が落ちた際、城主がいずこかに落ち延びるために秘密の通路があったといわれている。
- 加藤忠広(清正の子)が改易された際、細川家の初代藩主となった細川忠利は「この城(熊本城)を預からせていただきます」と言い、天守閣から清正の眠る金峰山(加藤家の菩提寺である本妙寺の方向)に向かって一礼したという逸話が残されている。
- なお余談ながら、肥後の細川家領には県南西部に八代城(八代市)という城郭があり、家老の松井氏が城主として世襲相続していた。また、南東部は人吉藩領で人吉城があり、天草諸島は江戸時代初期は唐津藩の飛び地、島原の乱終結後に幕府直轄領にされたので、熊本県すべてが熊本藩領だったわけではない。
観光名所の一つでもあるが、場内にはコスプレ係員も多数。ゆるキャラもいる。
平成28年熊本地震による被害
平成28年熊本地震の発生で前震(震度7)・本震(震度6)並びに度重なる余震の打撃で石垣の一部崩落、櫓の倒壊や屋根瓦・しゃちほこの落下の被害が相次いで発生した。
この被害は大きく、修繕には多額の費用と年月がかかると見込まれている。
これに対し、各地の城趾に復旧のための募金箱が置かれ、日本財団も30億円を寄付。
熊本市でも、一般の被災者用の義援金募集と並行する形で、城の再建用義援金を受け付けている。
外部リンク
熊本地震災害への支援等(義援金・寄附金・熊本城支援金)について