名称について
本車には「オイ」車、「ミト」車の二種の呼称があり、それとは別に「100トン戦車」「120トン戦車」「150トン戦車」などとも呼ばれていた。
このうちオイ車は陸軍側の呼称で、中戦車の三番目で「チハ」車(ハはイロハのハ)と言うように「オ」は「大型戦車」、「イ」はイロハのイで「大型戦車の一番目」という意になる。
なお本車について八九式中戦車を大型化したという説は八九式が「チイ」(中戦車の一番目)と呼ばれた事から混同されたものと言われる。
ミト車は開発会社である三菱重工内の仮呼称で「三菱」「特殊車両」の略である。
「100トン戦車」「120トン戦車」「150トン戦車」についてはそれぞれ別の車両であるという説と(執筆時にwikipediaを参考したところ100トンと120トンの別車両説だった) 車体のみの重量で100トン、砲塔などを装備した全備重量が150トン(もしくは120トン)で同一車両とする説があるが、ここでは後者の同一車両とする説を採る。
なお今回の記事の底本としてFM社の『150トン超重戦車「オイ」』の実車解説を使っている。
同解説の元は三菱内の開発日誌を元としているので、おそらく現状安易に入手できる資料では最も信頼できるものと思われる。
車両について
本車はいわゆる多砲塔戦車で、車体中央部に主砲塔一基 前部に副砲塔二基 後部に銃塔一基の四基の砲塔を搭載する予定で(後述しますが砲塔部は未完成)、エンジンは八〇〇馬力の航空機用エンジンを二基搭載、後輪駆動でブレーキ、クラッチは油圧式(緊急時にそなえ人力操作もあり)、乗員は11名と言われている。
諸元
全長 | 10.12m |
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全幅 | 4.84m |
車体高(砲塔は未搭載) | 2.53m |
装甲厚 | 30~35mm |
主砲(未搭載につき予定) | 九二式十糎加農砲改修型(105mm)1門 |
副砲(未搭載につき予定) | 一式四十七粍戦車砲(47mm48口径)2門 |
銃塔(未搭載につき予定) | 九七式車載重機関銃(7.7mm)2門 |
開発経過
昭和16年4月14日、陸軍技術本部(技本)より三菱重工に「特殊車両」の開発を内示
同15日 技本より最初の図面が送られる
同16日 三菱重工業東京機器製作所にて開発開始、完成は7月末とする
5月26日 三菱側より陸軍に希望完成納期を翌1月31日に変更してほしいと申し出るが、納期は10月31日とされる
11月8日時点での未完成部品は361点、工期は10日の遅れとされた
昭和17年2月1日 車体の重量計測 砲塔や武器弾薬、人員および燃料を除いた状態で96トン
同2月8日 車体の組立(ほぼ)完了
2月9日 陸軍関係者視察
3月2日 台上運転開始
4月13日 初地上運転(防諜上のため夜間工場前にて行われた)
5月14日 砲塔製作内示(最終的に砲塔はモックアップのみ完成)
7月15日 陸軍側関係者を招き供覧試験
昭和18年1月18日 相模造兵廠よりミト車の引取命令、
5月26日 三菱重工より輸送するため分解作業開始
5月31日 分解作業完了
6月7日~9日 車箱(車両本体)相模造兵廠へ移送
6月28日 再組立開始
7月21日 組立作業終了
8月1日 相模造兵廠内にて供覧試験 この時軟弱地面のため足回りが損傷、転輪一部脱落、起動輪破断 その後の考察で足回りの強度不足が指摘され再設計の要ありとされる
8月10日 破損状態の視察会、作業の一時終了 開発日誌の記載はここで終了
その後は造兵廠内にて保管、昭和19年に解体され設計図等も焼却されたと言われている。
なおこのオイ車のものとされる幅800ミリピッチ300ミリのキャタピラが静岡県の若獅子神社(陸軍少年戦車兵学校跡)に献納されているが、献納者不明であり詳細は不明。
世界最大の戦車
オイ車は全長10.12m全幅4.84mで、これはドイツの超重戦車マウスの全長10.085m(車体長9.034m)全幅3.670mを上回る。なお現在までに実用化された(実戦投入可能)戦車で世界最大はフランスのシャール2Cの全長10.27m(車体長同じ)幅3mで全長ではわずかに足りず幅では大きく上回っている。重量ではマウスの188tを下回る150t(予想)だが、足回り等の改修強化が行われたならばあるいはそれを上回り世界最大の戦車となったかもしれない。
ただしすでに多砲塔戦車は時代遅れとなっており、武装もマウスの12.8cm砲(55口径)に比べて大きく見劣りしておりまたマウスがベルリン戦に「出撃」(ただし機械故障で戦場までたどりつけず)したことを考えると、走行試験で終わってしまったのはやはり当時の日本の技術的限界だったのかもしれない。