概要
大日本帝国海軍の重巡洋艦。利根型2番艦である。千曲川、信濃川の上流部にある筑摩川に因んで命名された。
建造の経緯は利根型を参照のこと。
三菱重工業長崎造船所にて昭和13年3月19日に進水。当初は偽装のために軽巡洋艦として建造されたのだが、軍縮条約脱退により20cm連装砲塔4基を前甲板に集中させた重巡洋艦として昭和14年5月20日に竣工した。
太平洋戦争では第一航空艦隊(一航戦または南雲機動部隊)の一員として真珠湾攻撃に参加。筑摩から飛びだった水上偵察機が真珠湾に先行し、港湾内の実情を偵察した。
その後も一航戦、二航戦と行動を共に知ることが多く、姉妹艦の利根は一航戦と、筑摩は二航戦と行動する事が多かった。
昭和17年3月、ジャワ島南で筑摩を含む一航戦はオランダ貨物船「メイモットヨート号」と遭遇。第二十七駆逐隊の駆逐艦「有明」と「夕暮」が砲撃を行ったがなかなか有効打を与えることができず、業を煮やした筑摩は独断で砲撃を開始し、発射された20cm砲弾が貨物船との間にいた「赤城」の頭上を飛び越えていった。これには赤城に乗艦していた南雲忠一中将も肝を冷やし、直ちに射撃中止命令をおくったが、「筑摩」は射撃停止までに数斉射を放ち、「メイモットヨート」を撃沈した。
同年6月にミッドウェー海戦に参加。
筑摩は早期警戒のために艦載機を2機飛ばしたのだが、運悪く立ち込めていた分厚い雲の所為で米艦隊を見逃してしまい、しかも米艦載機と接触しながらこれを報告しなかったことも米艦隊発見の遅れに直結し、敗因の一つになったと言われる。その後、空母「赤城」「加賀」「蒼龍」が米軍機動部隊から発進した急降下爆撃機の奇襲攻撃で大破炎上すると、筑摩は艦載5号機を飛ばして空母「飛龍」の攻撃隊を誘導。米空母「ヨークタウン」の撃破に貢献したが、5号機は帰投せず行方不明となり、また「飛龍」も善戦及ばず撃沈されてしまった。なお、筑摩自身は無事に帰還している。
昭和17年7月以降、「筑摩」は第三艦隊に所属し、第二次ソロモン海戦や南太平洋海戦に参加。
南太平洋海戦では前衛艦隊として前にでるも、空母「エンタープライズ」艦載機による急降下爆撃にさらされ、艦橋左舷、主砲指揮所、艦橋右舷が大破。直後に誘爆を恐れて魚雷を投棄したため、魚雷の誘爆という致命的事態は免れるも艦載機が炎上、「筑摩」は戦闘不能状態となる。この時、一緒に前衛艦隊に所属していた姉妹艦の「利根」はスコールに隠されたため米軍機の攻撃を受けず、重傷を負った筑摩の古村啓蔵艦長は「爆弾の配給も、少しは公平にして貰いたい」と皮肉交じりに回想している。
戦闘不能となった「筑摩」は駆逐艦「谷風」「浦風」に伴われて戦線を離脱。この時、戦闘配食としてコーンビーフが出されたが、艦の内外には戦死者の肉片が散乱し、その凄惨な光景に食事どころではなかったという。この海戦で乗組員937名の「筑摩」は副長・砲術長・主計長を含む162名の戦死者を出した。
昭和18年2月に改修を兼ねた修理が完了。姉妹艦「利根」に先駆けて対空レーダーを装備するなど対空性能を強化し、同時に下甲板舷窓を閉鎖するなどの不沈対策を行った。
そして4月に山本五十六司令長官が戦死する海軍甲事件が起き、トラック泊地に進出していた「筑摩」は山本長官の遺骨を乗せた戦艦「武蔵」を護衛し、一時日本に帰還。だがすぐにトラック泊地に戻り、以後は訓練やラバウルへの輸送作戦、「瑞鶴」回航時の護衛などを行った。
昭和19年10月、「筑摩」は栗田艦隊に所属してレイテ沖海戦に参加。
サマール島沖海戦に於いて戦艦「金剛」、重巡「羽黒」と共に米護衛空母「ガンビア・ベイ」を砲撃し、「筑摩」は砲撃で前部機関室を浸水させるなどの活躍を見せ「ガンビア・ベイ」の撃沈に最も貢献する。だが追撃戦で米艦載機の反撃により、魚雷1本を艦尾に受けて火災が発生。舵故障と速力低下のため艦隊より取り残され、そこを再び米軍機の空襲を受けた。
生存者の証言によれば、弾薬が尽きて演習弾で応戦するものの、艦中央部に複数の命中弾を受け、大破炎上。その後、総員退艦で海面を漂っていた生存者120名余が駆逐艦「野分」に救助され、辛うじて浮いていた筑摩は「野分」によって雷撃処分された。だがその「野分」も、その晩に米艦隊に捕捉され撃沈され、生存者はなかったという。
「野分」に救助されなかった(救助されることを潔しとしなかった)1名の短期現役士官のみ、3日間の漂流ののちに米海軍に救助され、戦後日本に帰還した。「筑摩」、「野分」の生存者は、航空機搭乗員を除けば彼1名のみであったという。