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概要

筑摩(重巡洋艦)


「筑摩」は日本海軍の利根型重巡洋艦の2番艦である。千曲川、信濃川の上流部にある筑摩川にちなんで命名された。建造の経緯は利根型を参照のこと。
当初は偽装のために軽巡洋艦として計画されたのだが、軍縮条約脱退により20,3cm連装砲塔4基を前甲板に集中させた重巡洋艦として、三菱重工業長崎造船所で昭和10年10月1日起工、昭和13年3月19日進水、昭和14年5月20日竣工した。

竣工~太平洋戦争開戦まで

竣工当日付けで姉妹艦「利根」と共に第二艦隊第六戦隊を編成、艦籍は横須賀鎮守府(横鎮)に置かれる。同年11月15日、改めて第八戦隊を編成。さらに同年12月1日、艦籍が舞鶴鎮守府(舞鎮)に移る。小型艦や旧型艦ばかりだった舞鎮にあって、最大かつ最新鋭の艦であり、「舞鶴戦艦『利根』『筑摩』」「とねちく」の愛称で親しまれた。

太平洋戦争ー緒戦での活躍ー

太平洋戦争では第一航空艦隊(一航戦または南雲機動部隊)の一員として真珠湾攻撃に参加。「筑摩」から飛び立った水上偵察機が真珠湾に先行し、港湾内の米太平洋艦隊の停泊状況を偵察した。
その後も一航戦、二航戦と行動を共にし、姉妹艦の「利根」は一航戦と、「筑摩」は二航戦と行動する事が多かった。
昭和17年3月、ジャワ島の南で「筑摩」を含む一航戦はオランダ貨物船「メイモットヨート」号と遭遇。第二十七駆逐隊の駆逐艦「有明」と「夕暮」が砲撃を行ったがなかなか有効打を与えることができず、業を煮やした「筑摩」は独断で砲撃を開始し、発射された20.3cm砲弾が貨物船との間にいた空母「赤城」の頭上を飛び越えていった。これには赤城に乗艦していた南雲忠一中将も肝を冷やし、直ちに射撃中止命令を送ったが、「筑摩」は射撃停止までに数斉射を放ち、「メイモットヨート」号を撃沈した。

運命のミッドウェー

ミッドウェー海戦では「筑摩」は早期警戒のために水上偵察機を2機飛ばしたのだが、運悪く立ち込めていた分厚い雲の所為で米艦隊を見逃してしまう。しかも米艦載機と接触しながらこれを報告しなかったことも米艦隊発見の遅れに直結し、この海戦における敗因の一つになったと言われる。その後、空母「赤城」「加賀」「蒼龍」が米軍機動部隊から発進した急降下爆撃機の奇襲攻撃で大破炎上すると、「筑摩」は水上偵察機(5号機)を飛ばして空母「飛龍」の攻撃隊を誘導、米空母「ヨークタウン」の撃破(のち漂流中のところを伊168潜の雷撃で沈没)に貢献したが、この5号機は帰投せず行方不明となり、また「飛龍」も善戦及ばず撃沈されてしまった。なお、「筑摩」自身は無事に帰還している。

南太平洋海戦ーあわや沈没の危機に

昭和17年7月以降、「筑摩」は残存の空母で新編された第三艦隊に所属(戦隊は第八戦隊のまま)し、第二次ソロモン海戦や南太平洋海戦に参加する。
南太平洋海戦では前衛艦隊として前に出るも、米空母「エンタープライズ」艦載機による急降下爆撃にさらされ、艦橋左舷、主砲指揮所、艦橋右舷が大破。直後に誘爆を恐れて魚雷を投棄したため、魚雷の誘爆という致命的事態は免れるも艦載機が炎上、戦闘不能状態となる。この時、一緒に前衛艦隊に所属していた姉妹艦の「利根」はスコールに隠されたため攻撃を受けなかった。重傷を負った艦長・古村啓蔵大佐は「爆弾の配給も、少しは公平にして貰いたい」と皮肉交じりに回想している。
戦闘不能となった「筑摩」は駆逐艦「谷風」「浦風」に伴われて戦線を離脱。この時、戦闘配食としてコーンビーフが出されたが、艦の内外には戦死者の肉片が散乱し、その凄惨な光景に食事どころではなかったという。この海戦で乗組員937名の「筑摩」は副長・砲術長・主計長を含む162名の戦死者を出した。

輸送に護衛に

舞鶴海軍工廠で損傷復旧工事と戦訓に基づく改修を施され、昭和18年2月完了。姉妹艦「利根」に先駆けて対空見張り用電探(レーダー)を装備するなど対空性能を強化し、同時に下甲板舷窓を閉鎖するなどの不沈対策を行った。
4月に連合艦隊司令長官・山本五十六大将が戦死する「海軍甲事件」が起き、トラック泊地に進出していた「筑摩」は山本長官の遺骨を乗せた戦艦「武蔵」を護衛し、一時日本に帰還。だがすぐにトラック泊地に戻り、以後は訓練やラバウルへの輸送作戦、「瑞鶴」回航時の護衛などを行った。
昭和19年1月1日、第八戦隊は解隊。「筑摩」は「利根」と共に第七戦隊(「熊野」「鈴谷」)に編入される。

その最期ーサマール島沖に没す

昭和19年10月、「筑摩」は栗田艦隊に所属してレイテ沖海戦に参加。
サマール沖海戦において戦艦「金剛」、重巡「羽黒」、そして姉妹艦「利根」と共に米護衛空母「ガンビア・ベイ」を砲撃し、「筑摩」は砲撃で前部機関室を浸水させるなどの活躍を見せ「ガンビア・ベイ」の撃沈に最も貢献する。だが追撃戦で米艦載機の反撃により、魚雷1本を艦尾に受けて火災が発生。舵故障と速力低下のため艦隊より取り残され(このとき米艦載機から撮影された写真が残されている)、そこで再び米艦載機の空襲を受けた。
生還したただ1名の生存者(下記)の証言によれば、弾薬が尽きて演習弾で応戦するものの、艦中央部に複数の命中弾を受け、大破炎上。その後、総員退艦の命令で艦を離れて海面を漂っていた生存者120名余が駆逐艦「野分」に救助され、辛うじて浮いていた「筑摩」は「野分」によって雷撃処分された。だがその「野分」も、その晩に米艦隊に捕捉・撃沈されてしまう。
このとき「野分」に救助されなかった(救助されることを潔しとしなかった)この短期現役士官1名のみが、3日間の漂流ののちに米海軍に救助され、戦後日本に帰還した。彼の証言によって、初めて「筑摩」の最期が明らかになった。
上記の1名の短期現役士官、そして(サマール沖海戦の直前にミンドロ島に派遣されていた)水上偵察機の搭乗員を除いて、「筑摩」は艦長・則満宰次大佐以下全員が戦死するという最期を遂げたのである。

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