過ぐる日ビルマ戦線を 襲えるブレンハイム機に 猛然せまる一騎打ち
たちまち海に射落(いおと)せし 軍神加藤は死したるか
「空の軍神」より
『ブリテン・ファースト号』
1896年に創刊された新聞「デイリー・メール」は、1920年台に最大の読者を獲得し、また様々な革新的経営により、当時のイギリスで一番の新聞社となっていた。創刊10周年にあたる1906年にはドーバー海峡横断飛行とロンドン・マンチェスター間の飛行に賞金を出しており、1910年にはどちらも成功している。その創始者のひとり、ハロルド・アームズワース(のちのロザミア卿)は「世界一速い航空機」との称号をドイツより奪取すべく、イギリス航空業界に高速機を求めた。並みいる中でブリストル社がこれに応え、高速旅客機タイプ142を開発している。
このタイプ142は単葉で引き込み脚を備え、全金属製という、世界でも先進的な設計を取り入れていた。初飛行は1935年で、その性能は当時の新型(にしてはやや古臭いとは言われていたが)戦闘機グロスター「グラディエーター」よりも80km/h速いという記録をたたき出した。
この機は「ブリテン・ファースト」(この機がイギリスで一番速いのはもちろん、デイリー・メールが当時一番の発行部数だったことにも引っ掛けていると思われる)と名付けられ、ロザミア卿に納品される。が、この記録を見てイギリス空軍が次期主力機の原型に欲しがったため、交渉して寄贈してもらうことになった。
仕様B.28/35
こうして最速・最新鋭の航空機を手に入れた(無論タダとはいかなかったようだが)イギリス空軍は、これを基にした爆撃機開発に取り掛かる。仕様B.28/35というのがそれで、「ブリテン・ファースト」初飛行の4か月後にはこの仕様に則った機を150機発注している。
これがブリストル「ブレニム」Mk.1で、1936年の末から配備が始まった。
実戦化のために重量が増加し、ご自慢の速度性能は低下(498km/h⇒418km/h)していたが、それでも爆撃機としては高速なほう(実際にDo17E-1より約90km/h速い)で、1年後には16個飛行隊に配備されるなど、調達と配備は迅速に行われている。
操縦も簡単で運動性もよく、1938年には操縦士用の7.7mm機銃1門を機体下部に7.7mm機銃4門搭載のガンパックに改めた、どちらかというと戦闘爆撃機のように改装したMk.1Fの配備が始まった。こちらは本国の沿岸警備部隊へ哨戒用や船団護衛用として配備されている。
ブレニムかく戦えり
だが、この頃になるとさすがに旧式化し始め、設計を一新して洗練し、エンジンを強化型としたMk.4に交代することになった。最大速度は10km/h向上し、主翼燃料タンクが増設されたおかげで航続距離は500kmも良くなっている。また、機首も延長されてB-25のような恰好になった。
こうして再び戦場に戻ったブレニムだったが、元の設計のせいもあって防御力は低く、搭載力も少ないので、A-20「ボストン」(アメリカ製)などに交代されるようになっていった。さすがに設計の古さは隠しきれないようになっていたのだ。
だが、旧式の爆撃機にはもうひとつ使いでがあった。夜間戦闘機への改造である。
Mk.1Fのような4連装7.7mm機銃を装備したまま、レーダーを装備(もしくは未装備のことも)して夜間ロンドンに襲来するドイツ爆撃機迎撃に活躍した。1940年7月には初めての撃墜も記録している。
日本での「ブレンハイム」
性能では大したことのない(それでもDo17より高性能だが)、地味な爆撃機ではあるが、日本では意外に名の通った存在である。というのも、1942年5月22日ビルマのアキャブにおいて、港湾施設及び停泊中の艦船を狙って襲来した1機のブレニムが、「軍神」と称えられた陸軍飛行64戦隊の戦隊長、加藤建夫に致命弾をあびせ、自爆に追い込んだからである。
これにはいくつか説が唱えられているが、原因としては
- このときの64戦隊は対爆撃機戦法に十分習熟しておらず、同高度からの後(上)方攻撃しかできなかったこと
- 装備機にもまだ1型が配備されていた頃であり、ブレニムの防御機銃と同程度の射程だった(攻撃するには相手の射程内に入る必要があった)
ことなどが挙げられている。
この後ビルマが雨季に入り、航空作戦が困難になって、日英ともに戦力回復の時期にはいったころ、ようやくシンガポールでB-17(鹵獲機)を相手に使った対爆撃機戦訓練が行えるようになった。といっても、この頃は日本としても対爆撃機戦はまだまだ発展の過程にあり、南方軍技術研究所のテスト部隊と一緒でだったが。
また、翌年には火力増強を含めた一式戦闘機の強化型が配備され、もちろん射程も向上した。すべてはちょっとした巡りあわせの悪さだったのかもしれない。