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山手殿の編集履歴

2016-10-08 08:33:21 バージョン

山手殿

やまてどの

山手殿とは、戦国時代から江戸時代前期にかけての女性。真田昌幸の正室。

概要

山之手殿(やまのてどの)、寒松院(かんしょういん)とも。

「表裏比興の者」と評された真田昌幸の妻(正室)。子には村松殿小山田茂誠室)、真田信之真田信繁(幸村)がいる。


出自については諸説あり、真田家と同じく武田家臣である宇多頼忠遠山右馬助のいずれかの娘といわれている。昌幸が配流された高野山に遺る過去帳には「武田信玄公養女」ともある。

また、清華家(最上位から2番目の公家)の娘もしくは侍女という説もあるが、当時は地方の下級武士の身分だった真田家が公家衆と関連付けること自体が難しいと否定されている。


昌幸が武田氏に仕えていた当時は新府城に身を置いており、天正10年(1582年)織田信長による甲州征伐で武田が滅亡した際には九死に一生を得て新府城から脱出し、真田の領地である上田に帰還した。


慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い直前の石田三成の作戦により大名の妻子が人質にとられ、山手殿も当時大坂にいたため大坂城に抑留される。ただし、真田家と三成との親交が深かったこともあり三成から昌幸宛に「御内儀も大坂へ入りましたが何事もありません。宇多頼忠父子も当城(佐和山城)に来ています。」という旨の書状を送っている。後に真田家臣・河原綱家の機転により逃れて上田に帰還した。

※ ここで三成がわざわざ宇多氏の名を挙げていることから山手殿は宇多頼忠の娘という説がとくに有力視されている(三成の妻・皎月院は頼忠の娘(山手殿の妹)とされ、三成にとって山手殿は義理の姉にあたる)。


西軍の敗北後、夫・昌幸と次男・信繁は家臣16名と共に九度山に幽閉されるが、山手殿は長男・信之に引き取られた。以降は出家し寒松院と号し、没年まで大輪寺で生活する。


慶長18年(1613年)6月3日に死去。


関連タグ

戦国時代

真田昌幸(夫) 武田信玄(養父)

村松殿(長女) 真田信之(長男) 真田信繁(次男)

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