概要
いすゞがヒルマンミンクスの(ノックダウン→)ライセンス生産の経験を生かすべく開発、1961年10月に発表された。
ところが藤沢市に新工場を設けたものの生産立ち上げから相当グダグダしてしまい、1962年4月に発売を開始したものの、南関東地方、愛知県、近畿地方のごく一部でしか販売出来ない有様だったという(もちろん後に全国発売に切り替え)。
この車は、意外にも「日本初の2000ccガソリンエンジン搭載乗用車」だった(初期は1500cc車もあったが消滅)…。
初期のスタイルは逆三角形のテールを特徴にしたシンプルなものだったが、後期は一転して縦目ライトをメインにしたやや派手なものになった…。また、「エキスプレス」というライトバンも売られていた。
日本の乗用車ではトヨペット・クラウンに次いでヂーゼルエンジンを搭載した事で知られる。ただしクラウンに関しては初代モデルの一時期にしか設定されなかったが(ベレルの製造・販売終了後の1978年9月に再設定、この時は5代目)。
そのヂーゼルエンジンの経済性の高さを買われ、タクシーや自動車学校の教習車としてそれなりに需要はあったのだが、そのヂーゼルエンジン、実は2トントラックのものをそのまんま積んでしまったようなものだから、揺れはひどいわうるさいわでドライバーからは嫌われてしまう。結局LPガス自動車に駆逐されてしまい、ただでさえ自家用車としての需要がなかったこの車は完全に売れなくなってしまう。
結局「3台100万円」という、ヤケクソ半分の価格でも売れなかった、と言う都市伝説まで生んでしまい、1967年5月に「総生産・37,206台」で製造・販売を打ち切ったのだった。
なお、生活費以外の収入を、母親が作った私立学校の運営団体に寄付し、清貧を貫いた土光敏夫(経団連の会長を務めた事がある)の愛車としても知られた。