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オリンピック号の編集履歴

2017-02-25 15:40:20 バージョン

オリンピック号

おりんぴっくごう

ホワイト・スター・ライン社のオリンピック級客船の一番船にして、かのタイタニック号の姉妹船である。

建造までの経緯

1900年代初頭、イギリスの大手海運会社ホワイト・スター・ライン社は他社に先駆けて世界初の総トン数2万トン超客船セルティックの就航を皮切りに、『ビッグ・フォー』と呼ばれる4隻の2万トンクラス客船(セルティック、セドリック、バルティック、アドリアティック)建造の計画を進めていた。


しかし当時ドル箱航路であった大西洋航路のオーシャン・ライナー(遠洋定期船)は建造競争の真っ只中だった。同じイギリスのキューナード社や新興国ドイツのロイド社、ハンブルク・アメリカ・ライン社(ハパグ)はビッグ・フォーに対抗する客船を建造した。中でも極めつけはキューナード社のルシタニア号とモーレタニア号だった。両船は総トン数が約32,000トン、速力が25ノット(アドリアティックが24,541トン、17ノット)と、他の船を凌駕していた。


これらに対抗する秘策として考えられたのは、速力はキューナード社に敵わないが、規模、豪華さで勝るオリンピック級客船3隻(オリンピック、タイタニック、ジャイガンティック)の建造だった。オリンピック号竣工時の総トン数45,324トンはルシタニア号のおよそ1.5倍である。日本の客船を例にとれば、氷川丸が11,622トン、空母に改装された橿原丸が27,700トンであり、本級がいかに巨大か分かる(ただし1913年にはハパグ社のインペラトール52,117トンが就役するのだが)。

船内設備は映画『タイタニック』に描かれたように贅の限りを尽くしており、一等客向けに船内プールやトルコ風蒸し風呂、ジムなどの娯楽設備も備えていた。これは一等客だけに限られたものではなく、三等船室でさえ他の船とは比較にならない程の快適さであった。

安全面については、本級は乗客乗員の最大定員3,295人に対し折りたたみ式を含め最大64隻の救命ボートが搭載可能であった。しかし当時の安全対策への関心の低さや楽観論、そして最上部甲板の快適さが犠牲になることを嫌ったことから、建造当初救命ボートは20隻しか搭載しなかった(定員3048人のルシタニア号も当初は16隻のみ)。


しかし本級の規模は従来の船を遥かに越え、そのような巨大船の運用は当時全ての船乗りにとって未知のものであった。そのため技術的、人的欠陥が生じ、後述のような事故へ繋がっていった。


経歴

処女航海

サウサンプトン-ニューヨーク間を繋ぐ当時『世界最大の船』として鳴り物入りで登場したオリンピック号は1911年6月14日に就航した。その処女航海を行う船長として迎え入れられたのが、ホワイト・スター・ラインの最先任船長にして当時の上流階級から最も人気の高かったエドワード・スミス船長である。彼はビッグ・フォーのバルティックとアドリアティックの初代船長をも務めており、どちらの処女航海も無事故であった。そのため世界で最も経験豊かな船長の一人と評されたが、その後のタイタニック号の処女航海にて命を落とすことになる。


会社の面子をかけた処女航海は問題なく進むかに思われたが、ニューヨーク到着の際に事故が起きた。水先人の補助の下、スミス船長がニューヨーク港へ入港していると、タグボートの一隻がオリンピック号のプロペラの水流を喰らってオリンピックの船体に巻き込まれそうになった。幸いタグボートは脱出に成功し大事には至らなかった。


就役早々けちが付いてしまったオリンピック号であるが、復路のニューヨーク港出発の際には1万を超える観衆が押し寄せるなど、当時の人々の話題をさらった。


巡洋艦ホークとの衝突

1911年9月20日、出発港サウサンプトンを出たところにあるソレント海峡で英海軍巡洋艦ホークと衝突した。衝突の結果、ホークは艦首が大破する被害を受けた。一方オリンピック号は、衝角を備えた軍艦に追突されて船尾2区画が浸水、右舷のプロペラの回転軸が捻れるほどの傷を負ったが、自力でサウサンプトンに帰ることができた。皮肉にもこの事故がきっかけで本船は『不沈船』と評される様になった。


しかし事故後の裁判で海軍は、事故はオリンピック号の巨大な船体によって生じた波によってホークが吸い寄せられたためであり、ホークに責任は全く無いと主張した。裁判の結果オリンピック側の非が認められ、事故当時水先人が船を指揮していたにもかかわらず、ホワイト・スター・ライン社は多額の賠償金が課せられた。修理費と賠償金という多額の負債を抱えることになったホワイト・スター・ラインは深刻な経営危機に陥った。


会社の顔であり稼ぎ頭でもあるオリンピック号を少しでも早く復帰させるため、当時建造中であったタイタニック号のプロペラシャフトを修理に流用した。そのためタイタニックの建造は遅れることになったが、事故から2ヵ月後にオリンピックは大西洋航路に返り咲いた。

だが事故は続き、翌年2月の航海中に突然プロペラの羽が脱落した。これにより再びオリンピックはドック送りになった。またしても修理期間短縮のためにタイタニックからプロペラを外し、オリンピックに付け替え、タイタニックの処女航海は3月20日から4月10日にずれ込んだ。


タイタニック号沈没事故

1912年4月15日未明、氷山と衝突したタイタニックが極寒の大西洋の底に沈んだ。事故当時同じく大西洋を走っていたオリンピックも姉妹船の救難信号を受信し現場へ急行したが、両船はあまりにも遠く離れていた。本船が事故現場に到着した時には既にカルパチア号によって全ての生存者が救助されていた。その上、オリンピック号が生存者の移乗を申し出るも、タイタニックと瓜二つのオリンピック号を見ることで生存者がパニックに陥ることを危惧したカルパチア号船長から拒否され、仕方なく本来の航海に戻るほかなかった。


1500人余が犠牲となった未曾有の海難事故の結果、ホワイト・スター・ラインの信用は著しく損なわれ、経営はさらに悪化した。乗客の信用回復のため会社は安全対策の強化に乗り出し、オリンピック号も船底の二重化や救命ボートの追加(20隻→64隻)などが行われた。


第一次世界大戦

1914年、第一次世界大戦が勃発し、物資や人員の輸送のために各国政府は民間の船舶を徴用した。


大戦当初、オリンピック号はイギリス政府による徴用を免れていた。視認性低下のための灰色塗装や灯火管制、出発港の変更などがあったものの、定期運行を続け、在欧アメリカ人の帰国を助けた(当然だが米→英航路の乗客はほとんどいなかった)。しかし日増しにドイツのUボートの脅威は高まり、1914年10月21日のニューヨーク発グラスゴー行(乗客153名)の航海を最後に商業運行を止めた。

なお最後の航海の途中の27日に、触雷して航行不能に陥った戦艦オーディシャスの救難信号を受け、オリンピックは救助に向かった。オーディシャスの乗組員の一部を受け容れた後、オリンピックはオーディシャスの曳航を試みた。しかしオーディシャスの操舵装置が故障しケーブルが破断。2回目は軽巡リヴァプールのプロペラにケーブルが巻き込まれて切断され失敗。3回目もケーブルが負荷に耐え切れず失敗。結局曳航は断念され、残りのオーディシャスの乗組員もオリンピックとリヴァプールの移乗し、オーディシャスは爆沈した。


1915年には兵員輸送船としてイギリス海軍省に徴用された。当初海軍省は、後のルシタニア号撃沈からも分かるように、その巨体からオリンピックなどの大型客船は敵の攻撃に弱いため徴用をためらっていたが、船舶の払底がそれを許さなかった。

オリンピック号は12ポンド砲と4.7インチ機銃を搭載し、ガリポリ作戦など地中海での兵員輸送任務に従事した。


1916年~1917年はカナダ政府に貸し出され、カナダから欧州戦線への兵員輸送を助けた。また1917年には6ポンド砲が追加され、特徴的なダズル迷彩が施された。


大戦中のオリンピック号の活躍の中でも特に目を引くのがUボート撃沈の成果であろう。大戦末期の1918年5月12日、アメリカ軍兵士を乗せてフランスへ向う途上、前方500mに浮上しているUボートを発見した。一方U-103は後部魚雷発射管によるオリンピックへの雷撃を狙っていたが、発射管への注水ができずにいた。そこへオリンピックの砲手が一斉に砲撃を開始し、船自体も衝角攻撃(体当たり)をするために舵を切った。U-103は急速潜行しオリンピックと平行なコースを取った(真下に潜って射線から逃れるためか?)が、オリンピックの船尾が司令塔を直撃し左舷プロペラが耐圧殻を切り裂いた。

この戦闘で深刻なダメージを負ったU-103は、鹵獲を免れるためにバラストタンクを開放し自沈した。一方オリンピックは救助のために船を止めることはせずそのまま海域を離脱し、シェルブールに無事到着した(Uボートの生存者31人は米駆逐艦デイヴィスに救助された)。この功績から艦長は殊勲章(DSO)を授与された。


大戦後

欧州大戦が終結し再び客船として復帰したオリンピックは、姉妹船達とは異なり(3番船ブリタニックは大戦中触雷して沈没)天寿を全うした。


1920年代においてもオリンピックの人気は健在で、エドワード王子(後のエドワード8世)やチャールズ・チャップリン、ダグラス・フェアバンクス・メアリー・ピックフォード夫妻などの著名人も乗せている。


しかし1929年の世界恐慌のあおりを受け、1930年代の大西洋航路の乗客は激減した。オリンピックも次第に収益が悪化し、1933年~1934年は初の赤字となった。

1934年にキューナード社がホワイト・スター・ライン社を吸収合併して成立したキュナード・ホワイト・スター・ラインは新型豪華客船クイーン・メリーを就航させ、続くクイーン・エリザベスも建造予定であった。そのため古い客船は段々と引退し、ついにオリンピックも1935年に引退した。


解体が決定するまでの間、オリンピックはサウサンプトンのドックに係留されていたが、そこに一緒にいたのは本級が生まれるきっかけともなったモーレタニア号だった。長年大西洋航路を巡り競争を続けていた両船であるが、どちらも世界最大の栄誉を手にし、会社の顔として人々の人気を集め続け、大戦では姉妹船を失ったこともあるという、共通点の多い船だった。



すり替え説

オリンピック号にまつわる有名な都市伝説として、「実はオリンピック号はタイタニック号とすり替えられ、保険金詐欺のために沈められた」というものがある。事件の著名性、及び説の大胆さから今尚根強い人気を誇っている陰謀論である。しかし実際には眉唾モノで創作の域を出ないものである。


まず第一に、オリンピックとタイタニックをすり替えるには構造的な問題がある。しばしば陰謀論においては両船が非常に似ていたため、すり替えが可能だったとされている。確かに姉妹船の関係だけあって両船の外見が非常に似ていたことは事実である。しかしそれは何の知識も持たない一般人の目線から見てである。

二番船であるタイタニックは建造の段階で一番船であるオリンピックの運用の反省を採り入れていた。例えば、オリンピックはAデッキとBデッキに全通のプロムナード(遊歩道)が設けられていた。一方タイタニックではBデッキのプロムナードが廃され、代わりに収益増加のための新たな客室や、最高級スイートルーム(映画のヒロインの部屋)とそのプライベートプロムナードが造られた。またAデッキのプロムナードも前方部分に大西洋の強風を防ぐ窓が取り付けられた(ちなみに極寒の大西洋航路向けの設計が三番船ブリタニックの短時間での沈没の原因の一つにもなっている)。

このように両船の外見は非常に相似しながらも、決定的な相違が存在していた。日本に例えれば空母蒼龍と飛龍のようなもので、一般の乗客が間違えることがあったとしても、プロである乗員や事故調査委員会が間違えるはずがないのである。


第二に、事故時の対応である。タイタニックの乗員が氷山の報告を軽視していたという指摘もあるが、スミス船長が冬季の通常航路よりもさらに南寄りの航路を指示したように、少なくとも氷山を回避しようという意志を持っていたことが分かる。

更に氷山衝突後の乗員の対応は非常に混乱しており、高級船員間での避難基準が統一されていなかったり、船長が茫然自失状態だったなど、船を操縦していた船員達が衝突を事前に想定していなかったことは明らかである。もし保険金が目当てならば乗客を殺す必要はなく、他の船との連絡などあらかじめ救助を期待しやすい環境を整えるはずである。


そして第三に、ホワイトスターライン社がオリンピック号を沈める動機が無いことである。陰謀論ではタイタニックの身代わりになったとされるオリンピックを「傷物」などと評しているが、実際には上記の突貫修理にみられるように、世界で最も贅を凝らした客船に対する会社の期待は非常に大きく、会社一番の稼ぎ頭をわざわざ沈めるなど論外であった。

また、当時の太平洋航路は片道で一週間近くかかり、オリンピック一隻体制では隔週での往復が限界であった。そのため会社は往路・復路に予備を含めた3隻体制で毎週の大西洋航路運用を目指していた。そのため、従来のオリンピックに加えて、客室を増やし新たに世界最大となったタイタニックの就役は会社の悲願であった。

しかしタイタニックの沈没によってオリンピック級の運用計画が頓挫し、タイタニックの建造費が丸ごと無駄になった挙句、沈没による乗客への賠償をも負わなくてはならなくなった。その上、運輸業として最も致命的なことに顧客の信用を失うことになった。これは保険金ごときでは到底挽回することのできない損失である。


これらのことから、オリンピック号のすり替え説はデマであることが明らかである。




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