日本社会党
にほんしゃかいとう
日本社会党
(にほんしゃかいとう)
日本の社会主義政党 主要な政治政党として1906年から1996年まで存在した。略称 SDPJ、SDP、JCOP
アジア世界で、一番最初の社会主義政党(ソシアル・デモクラティア・パーティニャ)、が誕生したのは。極東の島国の日本(大日本帝国)である。
1906年. 『日本社會黨』(JSP)は設立されたが、すぐに日本帝国の警察機関によって分散させられた。しかし、日本の社会主義者(ソシアリスト)達から始まったこの政治的運動は、日本帝国内にくすぶっていた、無産者たちの無政府主義達(アナキスト)と社会主義者が連携していくことになる。(アナ・ボル運動)
最初の日本社會黨の(AD1906-7)の初期党員であり、組織者(オルグ・オルガナイザー)の地位を持っていた。片山潜は同時に、世界的に(インターナショナル)有名な社会主義・共産主義(コミュニスト)の護民官である。片山潜は、設立間もない『ソビエト社会主義共和国連邦』(1922年-91年.СССР・USSR)の革命と建国の父であるウラジーミル・レーニンが設立した、国際共産党(コミンテルン.1919-43)の執行部の幹事にまで出世した。片山潜移行で、日本の左翼で世界的な地位に上り詰めた革命家は出現しなかった。片山潜は1922年に革命の首都モスクワで亡くなった。
1927年. 大日本帝国(戦前の日本国)の臣民は、「普通選挙運動」の成立のために。護民の立場で活動していた左翼側の徒党集団に。合法的である国政選挙によって議会下院(帝国議会衆議院)の議席を上がらせていた。しかし、日本帝国の警察・治安維持当局によってs「農民労働党」「社会主義人民党]]」「社会主義大衆党]]」(社大党)などの社会主義・革新政党は、次々と時を得るごとに活動を全面禁止に、追い込まれていった。
1945年. 日本帝国は第二次世界大戦に破れ、連合国軍総司令部(GHQ)に占領統治された。その直後に日本社会黨(SDPJ・PCOS)は設立された。GHQ統治下の最初の下院選挙(衆議院)において、日本社会黨を含む左派政党は466議席のうち、144議席を取り最大派閥を形成した。
1946年.日本国憲法が公布されて日本国が始まった。
1947年.5月から1948年の2月まで日本社会黨(SDPJ・PCOS)は国民協同党・日本民主党(JDP)と連立政権で日本政府を主導した。社会党委員長(チェア)で内閣総理大臣(PM)となったは片山哲である。片山はソシアリストにしてクリスチャンの日本の歴史における最初の首相となった。しかし彼は2年で総理辞職した、後任に日本民主党総裁(プレジデント)に芦田均が総理大臣になったが、7ヶ月で辞職した。、その後民主自由党(民自党・DMOLIBP)の総裁である吉田茂が総理(PM)になる。ただし、吉田の政権以降は保守政権である。
1946年. 以来GHQ(総司令部)は日本統治の権限を用いて。旧帝国体制派や明治以来のソシアリスト・アナキストをあらゆる業界から追放する政策を、日本政府に実行させた。(公職追放)、公職追放は結局1952年まで継続した。この間に、社会主義政党やソシアリストは権力の足がかりを根本的に失っていた。
1948年. 日本社会党(SDPJ・PCOS)の指導部は、国内の共産主義者ではなく。ブルジョア政党(日本自由党・日本民主党)との協力を優先するしたために、党が割れた。社会党左派閥は「左派社会党」」を設立した。この「左派社会党」の支援の背景には、「毛沢東思想の中国式共産主義者」に近い感性を持つ「労働者農民党(農労党.1948-57 WFPⅲ)が存在していた。
1951年.から1952年の間、日本社会党(SDPJ・PCOS)は2つに割れていた。
左派社会党(LSDP)は「マルクス・レーニン主義政党」を掲げ。右派社会党(RSDP)は「暴力なしの革命、構造改革」を掲げていたからだ。
社会党決裂の理由は「サンフランシスコ講和条約(1952年)」と「日米安全保障条約」成立に対しての、ソシアリストの間での意見の相違だった。
1955年.10月 日本社会党(SDPJ・PCOS)は、国際組織である社会主義インターナショナル(インター)に登録した。
日本の社会党は、当時世界に存在していた「ソシアリスト政党」の中でもっとも理性的な革命政党だった。インターに参加している左翼政党、社会民主主義政党(ソシアル・デモクラティア・パーティニャ)のほとんどは、冷戦(1947-1991)において、「ソビエト連邦」(СССР・USSR)側として活動していたので。党に従う軍隊を持ち、死人が出る政権転覆のテロ活動も辞さない節があった。
しかし、日本の社会党はそれら仲間たちと異なっていて。「全テノ革命ヲタタキツブシ社会主義革命ヲ完遂セヨ」のレーニンを、党として奉じるいたが。現実世界での政党としての日本社会党は、「民主的な方法。選挙において政権を奪う」のみであり、社会主義国家に見られる過激なガチガチ表現や、党に従う軍隊の保有などの思考回路が全く持っていなかったように見える。少なくとも公(国会・TV)の場で1度も危険な兆候を見せたりしたことはない。
それと、日本の場合は、日本の赤軍を名乗る組織も勝手に動くし、学生(全共闘)は学生で勝手に動くし、日本社会党は前衛的な行為について、一度も公式見解を出したことはないし。社会党と彼らとの関係はよくなかった。
日本共産党(]CPJ)は、日本共産党でまた別の世界だ。社会党と共産党も一度も「五カ年計画(ピリトーチェカ)を、国民に提供したことはない。
1960年. 戦後以来、日本のソシアリストは、アメリカ合衆国(USA・米国)と日本国(JAP)の間の完成されたような、軍事的・政治的な合意形成に、常に反対派の立場を貫いた。その日本ソシアリストの首領と目され、当時の日本において、唯一といっていいほど社会主義者でありながら破格の人気があった。社会党委員長(チェア)の浅沼稲次郎は、日本のナショナル政党に入る。大日本愛国党の学生党員によって殺害された。
1966年. 1月 社会党右派が新党を作り、党を離脱した。
この新たなる社会党は「民主社会党」(民社党.DSP)を設立し。民主社会主義(ドイツ式社会主義)を掲げた。しかし最終的には「全ての社会党」は、日本共産党と中道左派の自由民主党(LDP、自民党)と、仏教団体の公明党との間に残された苦しい立場になっていった。
1960年. から1980年代 日本社会党(SDPJ・PCOS)は、下院(衆議院)・上院(参議院)の議会(国会)において自民党についで2番目に大きな政党で数を保持していた。(55年体制) 党が保持できたのは、1950年~1980年まで、日本国の最大の労働組合である、総評と社会党の社会主義的な不可分の連携があったからだ。それと、日本の首都である東京都の都知事美濃部亮吉の権力があったからだ。美濃部は、社会党やその他の政党から支持されており、彼自身も社会党の考えに近いものがあったからである。
1976年. 自民党(LDP)が主導する日本政府で、当時国民から絶大な人気を誇っていた「今太閤」田中角栄総理大臣(PM)が、アメリカの軍需産業ロッキード・マーチン社から多額の賄賂(不正金)を得ていた疑惑が発覚した。この時までに当時の自民党の政治家や日本政府の中央官僚、右翼団体の最高幹部などの大物政治家・権力者達が名前が挙がり、大掛かりな警察の捜査や連日の国会での証人喚問が行われた。
最大野党であった日本社会党(SDPJ・PCOS)は、最高の政権交代の機会と持ったように思われていたが。政権が変わることはなく、逆に最大野党の社会党自体の存在感も薄くなってしまった。議員による疑惑の追及が、国会の委員会場にいる「野党側に座る議員」が「どういった人たちなのか」理解していなかったということが普通であった。
社会党や民社党や社民連合や共産党のはずなのだが。かなり投票でいれているはずなのに、社会党の存在は日本の人たちの中では、すごい関心が低かった。日本は自民党の政権がかなり安定していたので、総理や自民党や社会党に関心自体がもともと覚えていないことがザラにあった。評論家の文章では「社会党政府ができたら、反米政権ができる。なのでCIAが、分断工作を仕掛けてきた」や「鼻から社会党は政権をとる気がなく、自民党という「経営者」に要求を突きつけて、若干の修正を勝ち取る「労働組合政党」程度の存在だ。」などがあったが、当の本人ある「日本社会党」(SDPJ・PCOS)からの見解は一言も伝わっていない。
1991年. まで自民党(LDP)による、40年近い治世の内、日本社会党(SDPJ・PCOS)だけが、完全に支配を完成していた自民党に対して、唯一反対可能な政党であった。 日本の社会システムである「3分4政党制」は、長年にわたり自民党が「3」、社会党などが「1」をとるシステムだった。
しかし、1991年以降の日本の政界は新たな時代に入くことになったとき、日本社会党(SDPJ・PCOS)は新たな7つの政党の試みに参加していく決断をした。
1993年. 自民党(LDP)は初めて野党に落ちた。
日本社会党(SDPJ・PCOS)は、日本新党、新党さきがけ、日本改革新党、民社党、公明党、社会民主連合、とともに45年ぶりに政権を握った。
1994年. から1996年まで社会党委員長(チェア)の村山富一が2度目の社会党総理になり、日本政府をリードすることができた。ただし、前の細川政権と同じく短かった。1996年の日本社会党定期64大会で日本社会党は社会民主党(社民党・SDP)となった。
1996年. 社民党(SDP)の指導部の「資本主義迎合」に敵対した、旧社会党の左派が離脱し「新社会党」を設立した。
1998年.自民・社民の日本政府から、社民党は政権を脱して、閣外協力をした。以後の政治は自民党が優勢となってゆく。
2009年.民主党(DPJ)が自民党を圧倒し、政権が交代した。社民党は国民新党とともに参画する。
2013年. 自民党(LDP)に圧倒的に政権交代
2014年. 下院(衆院)の選挙、社民党(SDP)は2議席をとった。
2015年. 下院(衆院)の選挙、社民党(SDP)は1議席をとった