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督戦隊の編集履歴2018/01/30 15:19:00 版
編集者:Fumitaka
編集内容:内戦中の食糧徴発隊に関して書き足しました。

督戦隊

とくせんたい

「阻止部隊」、「督戦隊(Загради́тельные отря́ды)」は、軍規の維持のため、戦場からの軍人の逃亡の阻止のため、スパイや後方攪乱者、もしくは脱走兵の逮捕のため、戦場からの脱走者や遅延した軍人を復帰させるために、正規軍の背面に配備された部隊。

概要

督戦隊は様々な国家の軍内部に設立され、すでに古代には、危機的な状況下において(死刑も含めた)懲罰を遂行すべく、きわめて士気・心理的に準備された軍人たちや特殊部隊において始まっていた。いくつかの別名には次のようなものがある。「野戦警察(Полевая полиция)」、「憲兵隊(Жандармерия)」など。第二次世界大戦中のドイツも「野戦憲兵隊(Feldgendarmerie)」を編成した。

きわめて有名なものとしては、労農赤軍におけるトロツキーの督戦隊、ソ連軍におけるNKVD部隊(国境警備隊、国内軍など)が挙げられる。

それを除くと、ロシア内戦の時期に「闇商人」や「投機屋」との闘争を目的に武装された労働者義勇兵も督戦隊と呼ばれていた。

逃亡等が発生しやすい士気の低い兵士が存在する軍隊では必要となるものの、この任務のみを行う部隊は基本的にあまり例を見ない。

過去

督戦隊の歴史は非常に古く、歴史家V・A・アルタモーノフ(アルタモーノフ、ヴラジーミル・アレクシェーエヴィチ)はすでに古代には騎兵による督戦隊の存在を指摘している(В. А. Артамонов. Боевой дух Русской армии XV-XX вв. // Военно-историческая антропология. Ежегодник 2002. М., 2002. С.131.)。

そういった兵はすでに古代ギリシアの歴史家クセノフォンの時代には存在していた。紀元前4世紀のその著作『キュロスの教育(Κύρου παιδεία)』において、歴史家は後方の横隊について書き記しており、それはこのように機能するという。

σὺ δέ, ὃς τῶν ἐπὶ πᾶσιν ἄρχεις, τελευταίους ἔχων τοὺς ἄνδρας παράγγελλε τοῖς σαυτοῦ ἐφορᾶν τε ἑκάστῳ τοὺς καθ᾽ αὑτὸν καὶ τοῖς μὲν τὸ δέον ποιοῦσιν ἐπικελεύειν, τοῖς δὲ μαλακυνομένοις ἀπειλεῖν ἰσχυρῶς: ἢν δέ τις στρέφηται προδιδόναι θέλων, θανάτῳ ζημιοῦν. ἔργον γάρ ἐστι τοῖς μὲν πρωτοστάταις θαρρύνειν τοὺς ἑπομένους καὶ λόγῳ καὶ ἔργῳ: ὑμᾶς δὲ δεῖ τοὺς ἐπὶ πᾶσι τεταγμένους πλείω φόβον παρέχειν τοῖς κακοῖς τοῦ ἀπὸ τῶν πολεμίων.

(Ξενοφών, Κύρου Παιδεία/ΣΤ, 3:27)

「己の務めを果たす人間を鼓舞すること、弱気な人間を恐れによって抑制すること、背面で向きを変えようとするもの全員を死によって罰すること、臆病者に敵よりも大きな恐怖を植えつけること」

(クセノフォン『キュロスの教育』第6巻第3章27節)

εὖ δ᾽ ἴσθι, ἔφη, ὦ Γωβρύα, [ἵνα καὶ τοῦτ᾽ εἰδῇς,] οἱ πολλοὶ ἄνθρωποι, ὅταν μὲν θαρρῶσιν, ἀνυπόστατον τὸ φρόνημα παρέχονται: ὅταν δὲ δείσωσιν, ὅσῳ ἂν πλείους ὦσι, τοσούτῳ μείζω καὶ ἐκπεπληγμένον μᾶλλον τὸν φόβον κέκτηνται.

(Ξενοφών, Κύρου Παιδεία/Ε, 2:33)

「人間の集団は、自信に満ちていると、不屈の闘志を抱くものだが、もし彼らが怖気づいていると、数が多ければ多いほど、彼らは恐怖に屈するものである」

(クセノフォン『キュロスの教育』第5巻第2章33節)

ここにクセノフォンは後方横隊の第一義を明確化している。すなわち、集団パニックに陥っていない時に、脱走兵を根本から阻止すること。

第一次世界大戦中の東部戦線では、隊伍の秩序回復のため、ロシア軍の司令部には類似の懲罰手段に頼ることが求められていた。最高総司令部の命令以前には実現しなかったが、前線と軍の指揮官には、この指令に関する非常に厳格な態度が存在していた(指揮官たちの命令――第2軍のV・V・スミルノフ〔スミルノーフ、ヴラジーミル・ヴァシーリエヴィチ〕将軍からの1914年12月19日、および第8軍のA・A・ブルシーロフ〔ブルシーロフ、アレクセーィ・アレクセーエヴィチ〕将軍による1915年7月5日の命令など)。1917年、軍の規律が解れ始めた時、ロシア軍の指揮官たちは再度の規律の回復を求められた。すなわち、この時期には阻止機能も担当する「突撃強襲大隊(ударные штурмовые батальоны)」、「死の大隊(батальо́ны сме́рти)」が広範に配置されていた。

ロシア内戦期における督戦隊

食糧問題において

ロシア内戦期においては、食料その他の備蓄の監視、闇商人や投機との闘争のため特別に編成された部隊が「督戦隊」(もしくは「哨兵(Пост)」)と呼ばれた。督戦隊は鉄道の駅、波止場、道路のある各都市に出現した。督戦隊の創設は、特に国の工業センターにおいて、混乱や飢餓など、危機的状況のもとに行われた。

1918年1月14日(新暦では1月27日)、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国人民委員会議は、V・I・レーニンの署名した決議「食糧情勢の改善に関する手段について(О мерах по улучшению продовольственного положения)」を承認し、その中では「物品の流通、穀物の集積及び追放、同時に投機に対する無慈悲な闘争のための、もっとも革命的な前進手段」のため、武装部隊の設立が提起されていた。食料・地方組織によって設立されたそれら部隊の基地には哨兵が配備され、督戦隊の機能を果たした。

督戦隊の適用の実地は、公式には人民委員会議の決議「食糧問題に関する非常全権人民委員について(О чрезвычайных полномочиях народного комиссара по продовольствию)」(1918年5月9日)と、「食糧徴発隊(Продотряд, продовольственный отряд)」の設立に関する全ロシア中央執行委員会の決議(1918年5月27日)の後に合法化された。

明確な組織の不在と、緊迫化する危機的状況で統制を作ることの困難さから、督戦隊の活動はしばしば権力の中央組織の立場に背くような、恣意的な性格を帯びた。

督戦隊の活動における明確な秩序を持ち込んだのは人民委員会議の規定「鉄道および水路上で活動している阻止機能を持つ食糧徴発諸部隊について(О заградитительных реквизиционных продовольственных отрядах, действующих на ж.-д. и водных путях)」(1918年8月4日)だった。それは食糧徴発部隊の鉄道および水道への設置の権利が、食糧問題人民委員及び県の食糧問題部局にのみ与えられることに合意するものだった。督戦隊指揮官は、食糧問題人民委員の機関の、全権委任状を確認する命令書を持ち合わせなければならない。督戦隊は、すべての乗用および軍務車両(国立銀行と郵便車両のみ除外された)を点検することができた。特に非難されたのは、督戦隊の活動が鉄道・水道の流通を妨げてはならないが、極端な場合にのみ蒸気船・列車を差し押さえることを許されたことだったが、その時間は1時間のみとされた。督戦隊は、一人につき20フント(8キログラム前後)という規定の運輸ノルマを超過した食糧を没収する権利を持っていた。濫用への闘争のため、督戦隊指揮官は徴収した生産物に対し、固定価格で支払われる受領証を交付する義務を負った。督戦隊は食糧徴発軍の部隊から補充され、督戦隊の人員は通常は5人から15人の範囲に定められていた。

1919年5月以降は、食糧徴発軍の部隊と督戦隊は共和国国内警備軍の組成に入り、1920年9月以降は共和国国内勤務軍の組成になった。1921年1月19日、国内勤務軍と督戦隊は陸海軍人民委員部へと引き渡された。

まだ1918年12月には、食料人民委員部の部隊と県の食糧委員会を除き、食料人民委員は全督戦隊の解体について提議を行っていた。しかし、食糧問題人民委員を除いた全権力機関に対する督戦隊の設置と、食料品の徴発の明確な禁止は、人民委員会議に1920年7月29日に採択された。

督戦隊はネップ(新経済政策)が採用された1921年後半に解体された。

事例等

 この部隊が活動する状況としては以下のとおりである。

  • 強制徴募により充当したり懲罰部隊など、士気の低い部隊
  • 傭兵異民族など、忠誠心が低く裏切りが予測される部隊
  • 負け戦が確定している戦闘など、状況が圧倒的不利な状態

などがあげられる。

国の例

 近代以前では割とメジャーであったとされ、オスマン帝国絶対王政下のフランスなどで見られたとされる。

 近代以降では徴兵制が採用され、兵士の士気が上がったため以前よりも見られなくなったとされるが、特に赤軍系の軍隊で多く確認され、特に大祖国戦争におけるソ連軍が有名。また、日中戦争などで強制徴募により兵士を賄った国民革命軍などでもこの種の役割を担った存在は知られている。さらに、ナチスの軍隊においても第二次世界大戦末期においてこの状況が見られた。

関連項目

軍隊 部隊 同士討ち

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