リベラル
りべらる
利用法
無論自由主義という言葉の本来の意味としては古典的自由主義をさし、自由放任主義かつ個人主義であり、神の見えざる手という言葉で表現され、経済を政府が管理する社会主義等とは対立する考えであった。
ところが、近代的自由主義という概念では古典的自由主義で発生した弊害を修正する形で公正という考えが導入され、貧富差における経済的隷属や個人の社会的自由を侵害する偏見や差別などの防止のため政府等が積極的に社会に関与するという考えが発生する。
無論左翼とは全くの別概念となるものの、共産主義への忌避感が強いアメリカや韓国、近年の日本では保守主義の対義語として混同される傾向がある。
たとえばアメリカ合衆国においてはこの言葉は保守主義の立場とは逆に個人の財産権などを軽視して福祉を過度に重視する、すなわち弱者擁護、寛容、進歩主義といった考えなどに用いられることがある。
さらに日本においては古典的自由主義を「自由主義」、近代的自由主義を「リベラリズム」と使い分けることがある。
ネオリベラリズム
なお、もともとの考え方を再構築し、市場原理を推し進め自己責任を基本に小さな政府、すなわち最小限の福祉しか行わないかわり税金等を削減する仕組み、を推進し労働者への保護をなくそうとする新自由主義( ネオリベラリズム )とも言うことがある。
左翼とリベラル
上記のとおり、本来左翼とリベラルは全くの別物である(むしろ保守と両立しうる概念である)のだが、昨今では左翼と混同されることが多く、右派からは「サヨク」とともに罵倒語として使われることもある。保守的な論者からは「『保守』になるわけにもいかず、行き場がなくなった左翼たちが逃げ込んだ緩衝地帯にすぎない」(山村明義)、「左翼と呼ばれたくない人たちの自称」(池上彰)、「隠れマルクス主義者」(田中英道)などと評されている。
逆に、右派的な安倍晋三のような政治家が中道色を強調する意味でリベラルを自称することがある。
「本来のリベラルとは」と再確認を試みる論客もいるが、自称・蔑称が入り乱れる状況で、共通概念としてのリベラルを定義することは絶望的と言える。
なお、日本の左派政党である社会民主党はリベラルと称することもあるが、日本共産党は自党が左翼であることにプライドを持っているため、リベラルと自称することは決してない。
宗教におけるリベラル
liberalとは単に「自由な」という意味もあり、宗教において「リベラル〇〇」とつく場合、上記の経済、政治上の思想とはかなりニュアンスが異なる用いられ方になる。
一言でいえば根本主義(原理主義)の対義語。聖典の文字通りの文言にとらわれず、文字通り自由に解釈する。
聖典を象徴的に解釈するのは伝統派、保守派にもあるが(カトリックが創世記を正典としつつ進化論を認めるなど)、これらと異なり、文献学や自然科学をもとに聖典の絶対性を否定しているという違いがある。
聖典は絶対的真理でも神の言葉そのものでもなく、限界ある人間がつくった文献に過ぎない、という前提のもとで、その中から「神の教え」ととれるものを選び取り、強調する。
「進歩主義(プログレッシブ)」と呼ばれることもあり、古代聖典にありがちな、現代的な価値観からは不十分な人権感覚を否定し、同性結婚の積極的肯定など、現代において進歩的、とみられる価値観と適合的である。
中絶についても、それ自体は避けられたほうが良い、行うにしてもやむをえない事とはするが、各人が選択可能な法的権利としては存在を支持する傾向にある。
宗派とは異なる枠組みであり、伝統的な宗派に所属する信徒がリベラルな宗教解釈を持つ事も多い。現代において、特にキリスト教のプロテスタント諸派の中では無視できない勢力となっており、ヨーロッパ等の同性結婚が法的に認められている国ではルーテル派や長老派といった歴史ある教派の教会が宗教的な同性結婚式を執り行っている。
とはいえ、古い教派においては内部に伝統固持の保守派も残存しており、リベラル派とのせめぎあいが続いている。