概要
ホーカー社の戦闘機。
英空軍初の低翼単葉・引込脚採用の戦闘機だが、全体的には旧態依然とした鋼管羽布張り構造で、複葉機の延長線上にあるものだった。つまりハリボテである。
(ただしこれは米軍のF4Fワイルドキャットにも言えることである)
しかし生産が容易なこと、主脚が頑丈なことから独仏戦時の大陸派遣軍からバトル・オブ・ブリテンにかけて、実質的な主力戦闘機として活躍した。
BoBでは救国戦闘機として有名なのはスピットファイアだが、数の上ではハリケーンが上回っている。
BoBでは独軍機の侵入高度が6000m程度と高かったことから、対戦闘機戦闘はスピットファイア、対爆撃機邀撃はハリケーンと棲み分けができていた。
一方、高度4000m前後以下の低高度では、直線番長のBf109、Fw190に対しても格闘戦で互角の勝負ができたとされている。
また、英海軍の艦上機開発がことごとく失敗に終わった後、ハリケーンをベースに艦上機化したシーハリケーンが海軍で採用された。同様の経緯を経てスピットファイアベースのシーファイアも開発されるが、スピットファイアの脆弱な足回りが仇となり発着艦事故を多発させたのに対して、軽量で小回りの利くシーハリケーンは艦上運用にもよく耐えた。
BoB以降は、Bf109に比べても劣らない性能向上形のMk.IIに移行したが、戦闘機としての任務は、長距離侵攻の可能な米軍戦闘機や、自身の直系の後継であるタイフーン、テンペストに譲り、主に対戦車攻撃機として活路を見出していく。
イギリス軍の最多生産戦闘機であり、「偉大なるNo.2」として知られている。
「ハリボマー」と呼ばれたハリケーンMk.IIBは7.7mm機銃12挺を装備している。
7.7mm機銃に一発の破壊力は期待できないが12挺となると、撃たれる方は四方八方から火ぶすまのような弾幕を浴びることになる。
しかし、小口径の機銃を多数搭載するのは重量面で不利になり、飛行性能が犠牲にされる事になる。
そして、20mm機関砲のような大口径火器を積む方が火力とコストに優れており、「ハリボマー」もそちらに舵を切った。
まもなく20mm機関砲4門を装備したMk.IICが生産され、40mm機関砲2門を装備したMk. IIDは北アフリカで地上攻撃に活躍して「缶切り」と呼ばれた。
「偉大なる凡作」
北海作戦編
バトルオブブリテン(1940)当時、性能面では既に旧式化していたハリケーンであったが、総合的にはよくイギリス空軍を助け、連合軍の窮地を救った立役者といえるだろう。ブリテン島上空だけでなく、ハリケーンはノルウェーや地中海方面でも活躍し、とりわけレンドリース船団護衛用に急遽改造された商船(CAMシップ)向けには、数種の改造ハリケーンが考えられた。
最終的には車輪を引き込んだままカタパルトに固定し、ロケットブースターで加速してムリヤリ発進、着艦はできないので味方艦上空で脱出して飛行機は捨てるという、無難な方式(?)に落ち着いたのだが、ボツ案には短い飛行甲板で発進するため、複葉機よろしく主翼をもう1枚増設するという機も考えられていた。ここに来てまさかの複葉機逆戻りである。この増設翼は木製で、発進後は背面飛行状態から固定を外して振り落とす(もちろん着艦できないので使い捨て戦闘機となる)。しかし、この「複葉」ハリケーンは、ただでさえ上昇力に劣るハリケーンMk.1にとって、空気抵抗や重量によりますます性能を悪くするものだった。結局「これでは使い物にならない」とされ、作っただけで終わった。
結局のところ、船団護衛にCAMシップだけではその重要性に対して力不足なのは明らかであり、1942年9月のPQ-18船団からは一応の空母(といってもアメリカ商船改造の特設空母・MACシップだが)を伴うことになった。もちろんこちらの搭載機もハリケーンであり、船団に襲い来るドイツ機を向こうにまわして奮闘している。
船団は陸地から遠く離れた海域を航行するので、ドイツ爆撃機に護衛戦闘機は付いていけなかった。いっぱしの戦闘機の前に、護衛のない爆撃機などは標的でしかなく、これまでも襲撃の度に損害が積み重なっていたドイツ爆撃機隊は、とうとうこのPQ-18を最後に鳴りを潜めることになる。
なお、護衛部隊に廻されたのはハリケーンMk.1だったのだが、護衛する物資には新型のハリケーンMk.2も混じっていた。これについて護衛部隊からは「ロシア向けハリケーンはMk.2なのに、俺たちにはMk.1とかひどいぜ」など等とボヤかれたのだとか。
地中海・アフリカ編
地中海・アフリカ方面でもハリケーンはよく活躍し、こちらは戦闘爆撃機としても勇名を馳せた。中でも40mmガンポッドを装備したMK.2Dは対戦車・対艦艇への大きな脅威となり、扱いなれていた者が多かったこと、低空パトロールは飛行特性との相性が良かったこともあって、パイロットからは好評をもって迎えられた。
対空任務にはスピットファイアの数が揃うにつれて、ハリケーンには戦闘爆撃機として使われるようになっていった。エンジンが低空向きなことに加え、機体が羽布張りで被弾に強い(そして修理もカンタン)ことも高評価の決め手につながった。何せフレームに帆布を張っているだけなのである。弾丸の多くは帆布に穴を開けただけで通過してゆき、上手いことコクピットやエンジン、または燃料タンク等に命中しない限り、致命傷にはならなかった。
ロシア編
レンドリースで送られた物資の中には、まさにハリケーンMk.2Bもあった。
イギリス空軍から教官が派遣され、ムルマンスク港近くのバエンガ飛行場で飛行訓練を行った。
1941年9月11日に初出撃を記録し、この部隊は同じ基地のPe-2を護衛して活躍した。『Pe-2の巡航速度に、ハリケーンは最大速度で付いていかなくてはいけなかった』という話は有名(本当はPe-2がエンジンほぼ全開で巡航していた、というだけの話らしい)。10月半ばには訓練修了と共に機体を順次ソビエト側に引き渡している。教官は訓練完了により帰国命令が出され、11月29日には帰りのレンドリース便に乗りこんでロシアを後にした。まさに港を出ようとした時、クズネツォフ少将とサフォーノフ大尉のハリケーンが飛来して、船団の上で翼を振って別れを惜しんだという。
最終的には2952機のハリケーンが送られ、低空が得意なハリケーンは、やはり低空での作戦を得意とするソビエト空軍には相性がよかった。送られたハリケーンはMk.2Bであったが、ロシアではやはり一発当の威力はあった方がいいということで、独自に武装をその後20mm機銃ShVAKと12.7mm機銃UBの各2挺ずつに換装して使っていた。
フィンランド編
1940年2月、それまではスクラップ置き場から引っ張り出したような旧型機しか送って寄越さなかったイギリスは、アメリカ・フランス・イタリアがこぞって最新型を送った事に引け目を感じたらしく、ようやく新式の機をフィンランドに送り出した。それがハリケーンMk.1(12機)で、ウエストランド「ライサンダー」直協機(11機)もオマケに付けた。
しかし、支援した当時としてもマイナーチェンジ間近の旧型であり、しかもフィンランドへ送る途中で1機墜落してしまった。残り11機では数が少なすぎて大規模には使えず、到着した頃には冬戦争は終わっていた。継続戦争には間に合ったが、前述の事情により首都ヘルシンキ防空に投入された位だといわれる。
これらハリケーンは皮肉にも、撃墜した「赤い星」ハリケーンの部品も使って維持されてゆき、ヘルシンキの空を終戦まで守り続けた。ソビエトもレンドリースされたハリケーンをフィンランド戦線に投入していたが、このように投入された場所が違うため、両軍のハリケーンが直接戦った例は無いという。
参考文献:「北欧空戦史 ―なぜフィンランド空軍は大国ソ連空軍に勝てたのか」(HOBBY JAPAN軍事選書)
ビルマ戦線編
低空での格闘戦ではBf109に引けをとらないハリケーンではあったが、さすがに一式戦闘機のような日本機には相性が悪かった。「日本機相手では、どんなに旋回しても必ず内側につけてくる」と恐れられ、とくに初期は日本機に望遠照準器が装備されていて、視界が狭いことを逆手にとって逃げてくる等の工夫を駆使しないと、逃げることもままならなかったという。
しかし、ハリケーンは格闘戦で勝てないと見るや、戦法を一撃離脱に切り替え、また火力面で大きく勝っている事を生かし、A武装は7.7mm8挺による弾幕、C武装は20mm機銃4挺による破壊力で日本機を恐れさせた。なお負け戦の印象が強いビルマ方面だが、実際には両軍とも雨季を戦力回復に充てられたおかげで、航空戦に限っていえばよく戦っていた方である。
総評
こうしてハリケーンは終戦まで活躍し、総合的な生産数は14000機にも達する。
これは日本最多の生産数を誇るゼロ戦(約10400機)をも引き離しており、当時イギリス連邦がいかに大きな国力を有していたかを、そしていかにハリケーンが支持されたかを物語っている。
ハリケーンは旧態依然とした機ではあったが、パイロットのみならず、生産・整備の観点からも扱いやすい機だったので多いに支持を集めた。バトルオブブリテンでは撃墜したドイツ機の約4割はハリケーンの戦果だと言われており、そうした事からも『偉大なるNo.2』である事は疑いない事だろう。