ホーカータイフーン
ほーかーたいふーん
ホーカー・タイフーンの一般的なイメージは、ドイツ軍の戦車を爆弾やロケット弾で果敢に攻撃する姿かもしれない。
しかし、開発時には戦闘爆撃機としての運用は考えられていなかった。
タイフーンはハリケーンを置き換えるために計画された。
設計段階ではスピットファイアを代替できる機体として、実験部隊に配備された時には大火力と高速力で、RAFが手を焼いていたFw190に対抗できる新型機として期待された。
だが、タイフーンの開発には苦難の連続が待っていた。
搭載されたエンジンはネイピア・アンド・サン社(以下ネイピア)の手になる液冷H型24気筒のセイバーエンジンだったが、当時としては一種無謀なまでの大出力(1938年末の試験運転の時点で2400馬力!)と引き換えに初期型は問題が多かった。
24気筒という多気筒なうえに、H型エンジンは180度バンクにしたV型エンジン2基を2段重ねにして、2つのクランクシャフトの回転力を中間ギアで合成して出力する、一種の双子エンジンのようなものだった。
当然構造が複雑化した(※)上に、ネイピアは品質管理に不熱心で、スペック向上ばかりに執着していてセイバーエンジンの信頼性が低かった。
スリーブバルブという、上下動ではなく横滑りで吸気弁や排気弁を開け閉めする機構を採用していたが、これの故障も多かった。
この事態に頭を抱えた航空省が、ブリストル社に技術供与させた(同じくスリーブバルブ搭載のトーラスエンジンを製造して、これといった問題を起こしていなかったため。当然ながらブリストル社は渋った)ことで、一応バルブ回りの問題は減少した。
この事もあり、タイフーンの原型機に対する評価は、必ずしも芳しいものではなかった。
大出力エンジンに機体が当初はついていけておらず、飛行時に主翼の外皮が捲れたり機体が破損するなど、弊害も発生した。
他にも高空性能の欠如等、後述するがトラブルは枚挙にきりがない。
また、テストの時期が、ちょうどバトル・オブ・ブリテンに重なり、イギリスの空が戦場になっていたため、一時開発は中断され、ホーカー社はハリケーンの改良に労力を注いだ。
一部の技術者が諦めることなく研究を続行し改良を図り、また、バトル・オブ・ブリテンでイギリスが勝利したことにより、タイフーンは完成に漕ぎ付けた。
※ ロールス・ロイスやドイツのダイムラー・ベンツもこの当時双子エンジンを開発しているが、どちらも搭載機の大半を失敗作に終わらせるか、開発失敗寸前に陥らせるかしてしまっている。
1942年、ドイツ空軍が新鋭機Fw190を戦場に投入し主力戦闘機のスピットファイアMk.Vを性能で圧倒したため、タイフーンが一部の部隊に試験的に投入された。しかし、タイフーンは急降下に弱く尾部が折れるなどの事故が多発し、Fw190が相手では分が悪かった。
コックピット内に一酸化炭素を含んだ排気が充満したり、地上が摂氏10度以下の環境下でエンジンの稼働率が落ちる(始動した途端に爆発した例もあった)といった危険極まりないトラブルや、低空での戦闘が多いこととエンジン排熱とでコックピット内が猛暑になったり、潤滑油が低温では固まりやすく場合によっては整備士が徹夜で温度管理する必要があったり、ネイピアの品質管理が杜撰で、部品のゆがみや切削くずがエンジン内に残ったまま納品されるといった問題もあった。
液冷エンジン搭載機ではあるが、24気筒のセイバーエンジンのために巨大な吸気口を機首下部に設けたことなどから、下から見ると機影がFw190に似てしまった。
スピットファイアも新型のMk.IXではFw190と互角に闘える事が確認され、タイフーンの開発も再び頓挫しかねなかった。
要するに、半ば以上はネイピアのせいで2度にわたり開発失敗に陥りかけた。
だが、試験部隊の技官やパイロットたちが応急処置を施しつつ、改善を重ねていった。
コックピット内の一酸化炭素流入と猛暑は、まずは現場での改造で主翼前縁に開口してコックピットまでチューブを引き換気を行った。これを見た開発陣は生産途中からコックピット前に換気口を設けて空気を入れることで一応解決した。
寒冷時のエンジンの始動性は、当時は程度の差こそあれ各国で起きていたことでもあり、温めるためにヒーターを載せたトラックが用意されたりした。
その改良の中には、「インベイジョンストライプ」という白黒のストライプを機体の底面に描いたことも含まれる。これによって誤射される危険性が大幅に減少した(後に連合軍機で一般化)。
エンジンのトラブル多発させたネイピアは、高空性能を上げようと二段三速スーパーチャージャーの開発に注力していたが、品質への無関心やセイバー搭載機の少なさから1942年末にはイングリッシュ・エレクトリック社(名前から察せられる通り電機メーカーでもあり、戦前の鉄道省も電気機関車を輸入している)に買収されてしまう。
買収後は新経営陣が品質改善に力を入れたため、ようやく安定して2400馬力を出せるようになった。
1942年末、エンジンや機体に起因するトラブルに苦しめられつつも、タイフーンはドイツ空軍戦闘機を相手に戦果を挙げるようになった。
だが、1943年に入ると、イギリス空軍は敗走するドイツ軍を追撃するために、迎撃機よりも攻撃機を必要とするようになってきた。ここで求められるようになったのは、戦闘爆撃機としての能力であった。
想定されていなかった使用法であったが転換は容易で、タイフーンはロケット弾を8発装備しても最高速度の低下は24km/h程だった。
また、ロケット弾を本格装備する前からフランス沿岸のSボート(魚雷艇)や沿岸輸送船への攻撃や、飛行場攻撃に投入されて暴れまわった。
ロケット弾で戦車を破壊するには、装甲の薄いエンジン部か履帯に命中させる必要があり、弾道を見越した照準には相当の技量を要した。
ノルマンディー上陸作戦にはタイフーンを装備した26個飛行隊も駆り出された。ノルマンディーに上陸した連合軍の歩兵部隊を上空から援護し、戦車に対する攻撃の有効性は低かったものの、ドイツ軍の輸送と通信手段、軽装甲車両、小型船艇などには甚大な被害を与えた。
パットン将軍のアメリカ第3軍に反撃するドイツの陸戦部隊への攻撃では、車両81台を破壊ないしは損傷させ、ヴィレで守勢に回ったイギリス陸軍への支援では、2,000発以上のロケット弾、80t近くの爆弾が使用された。
これらの戦果により、戦闘爆撃機としてのタイフーンのイメージが記憶されることになった。
1942年、トラブルの元だった分厚い主翼を層流翼に換えたタイフーン2は、ホーカーテンペストとなり、1943年より量産が開始された。
テンペストは中低空ではスピットファイアより優速で、機体も強固であり、引き続き戦闘爆撃機として敗走を繰り返すドイツ軍を追撃することになった。
対独戦終盤、自由フランス空軍のエースパイロット、ピエール・クロステルマン中佐(ペリーヌ・クロステルマンの元ネタとなった人物)はテンペストを使用していた。