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長野業正の編集履歴

2018-11-19 21:41:05 バージョン

長野業正

ながのなりまさ

長野業正とは、室町・戦国時代に活躍した日本の武将である。

概要

1491年、上野国西部を治める豪族の長野家に生まれる。

長野家は山内上杉家に従属する勢力で、上野国の要衝・箕輪城を本拠地としていた。

当初は関東管領・上杉憲政に従い、急速に勢力を拡大する後北条家と戦っていたものの、山内上杉家は後北条家の武力の前に領国の武蔵国から徐々に駆逐されていき、最終的には『河越夜戦』を初めとする決戦に大敗を喫したことで滅亡、憲政も越後の長尾家を頼って落ち延びてしまう。


武蔵国を得て更に力を増した後北条家の脅威に真正面からぶつかり合うことを強いられた業正だったが、長野家を取り巻く状況は更に悪化の一途を辿っていく。

後北条家は上野国南部の長尾・旧上杉派勢力を次々と従属させ、更には国境を接する今川家・武田家と結託、戦国最強の軍事同盟と名高い『甲相駿三国同盟』を結んだことにより、長野家は南は後北条、西は武田と強大な勢力の脅威に挟まれることとなってしまう。

しかし、長野家も北の越後国を治める長尾家から支援を受けつつ、同じく後北条家の脅威に晒されていた宇都宮家・佐竹家・里見家などの他の関東諸勢力と連携し、これに対抗した。

また、外交面だけでなく、領国においても配下の国人勢力『箕輪衆』と婚姻関係を結ぶことで結束の強化を図るなど、あくまでも徹底抗戦の構えを見せた。


江戸以降の軍記物では、上杉憲政の養子となって上杉家の家名と関東管領の職を引き継いだ長尾景虎(後の上杉謙信に従い、小田原討伐に参加した他、北信濃国から侵攻を図った武田信玄の軍勢を幾度も追い返すなど、その存命中は後北条家の勢力拡大を阻む最大の障壁の一つとして大いに奮闘・活躍した。武名を轟かせた業正も寄る年波と病には勝てず、1561年に死去。

しかしこれについては後世のイメージであり、同時代史料で裏づけがあるものではない。謙信の関東侵攻は永禄3年(1560年)、信玄の西上野侵攻は永禄年間の開始と、学術研究の進展によりこれらの事蹟は不確かなものになっている。

長野家の家督は次男の業盛が継ぎ、父に劣らぬ武勇と意欲で箕輪衆を率いて戦うが、武田信玄の猛攻の前に衆寡敵せず自害、箕輪城は陥落し、ついに長野家は滅亡してしまった。



箕輪城の戦い

業正の武名が轟く切っ掛けとなったのは、当時『甲斐の虎』と謳われ、戦国最強の戦上手の一角として名高い武田信玄の6回に渡る侵攻を全て撃退していることにある。

緒戦の野戦でこそ打ち負かされているものの、籠城戦では箕輪城の堅牢さを盾にゲリラ戦を駆使して武田軍の攻城作戦を散々に妨害し、一度も確たる損害を被ることなく凌ぎ切っている。

信玄をして、「業正存命の内は上州に手は出せぬ」と嘆かせたと伝えられる。



上泉信綱との関係

業正の配下には、新陰流の創始者として名高い剣聖・上泉信綱がいたとされる。

希代の武将・兵法家でもあった信綱は、業正の下『長野十六本槍』の一人に数えられるほどその武名を轟かせ、『上野国一本槍』の異名で業正と共に周辺地域から恐れられたという。

しかし、箕輪城の戦いを機に兼ねてよりの悲願だった剣の道に生きることを希望し、許されて業正の下から去り、弟子たちと共に諸国修行の旅に立ったという。


各メディアでの長野業正

信長の野望シリーズ

武将風雲録より初登場。戦闘能力に関しては申し分はなく近年のシナリオでは大名となってたりする。ただ寿命が長くはないので難易度は普通。また天道では河越夜戦イベントもあり選択肢によっては上杉憲政が行方不明になるが業正が当主を継ぐ展開もある。


関連タグ

戦国時代 武将 関東勢

上杉謙信 武田信玄 北条氏康

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