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堀河天皇の編集履歴

2018-12-14 20:42:14 バージョン

堀河天皇

ほりかわてんのう

平安時代後期の73代天皇。

重要

白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女(実父は源顕房)藤原賢子、諱は善仁(たるひと)

来歴

応徳3年(1086年)に、父の白河天皇によって8歳で即位、天皇は立太子と同日に即位したのは異母弟の輔仁親王に皇位を継承を避けるためだったという。

即位後は義理の祖父の藤原師実の摂政となり政治の実権を握った。こうして摂関政治が回復した。

白河上皇は師実の政治を信頼し、院庁の人事も師実の人選に任せており、一方の師実も白河上皇の摂関の任命権を委ねるなど、この時期には上皇と師実は協調関係があり、上皇に院政を敷く意志はなかった。

堀河天皇が成人になると関白藤原師通が就任、上皇の政治関与に批判をする。自ら政務に執る堀河天皇に協力的であった。親政に近い状態が現出することとなった。上皇自身も後見の役目を終えたことで天皇の准母である媞子内親王の薨去を機に出家して政務への意欲を失っていた時期でもありこの体制が許容されていた。ところが承徳3年(1099年)に師通が死去すると、若い藤原忠実は天皇の補佐が足りず、天皇は法皇に政務を相談をせざるを得なかった。またかつて師実との協調関係から法皇は摂関家にも強い影響力を持ち続け、結果として白河法皇の院政が成立した。

堀河天皇は「末代の賢王」と評される賢帝として知られた。関白師通と提携による政治も熱心に取り組んでいた。しかし白河院の政務への関与が再び強くなり、天皇は次第に趣味の世界に移った。叔母に当たる中宮・篤子内親王の薫陶を受け、学問和歌管弦に才能を発揮していた。その発揮が近臣らに慕われたが、生来病弱で、在位中に29歳で崩御した。その後皇子の宗仁親王(鳥羽天皇)が即位した。

人物

性格は上品かつ優雅であり、その誠実な人柄に宮廷社会でも人望を集めたという。

関連項目

天皇 皇室 白河天皇 藤原師実 藤原師通

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