ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

継体天皇の編集履歴

2019-02-07 18:31:40 バージョン

継体天皇

けいたいてんのう

第26代天皇。応神天皇の五世孫。継体天皇元年(西暦507年)即位。

概要

先代の武烈天皇は、皇子も皇女もおられないまま崩御された。

そのため、皇嗣がおられなくなるおそれがあった。

そこでこの時一番の政治権力をにぎっていた大伴金村は、仲哀天皇の五世の御孫である倭彦王をお迎えしようとして、丹波に武備を整えた使者を派遣した。

ところが、倭彦王は朝廷の使者のいかめしい様をご覧になって恐れられ、山の中にお逃げになってしまった。

金村が次にお迎えしようとしたのが、越前の三国におられた、応神天皇の5世の孫であられる男大迹王であった。

金村が男大迹王を推薦申し上げると、大連の物部麁鹿火と大臣の許勢男人ら朝廷の首脳部がこれに賛成、迎えの使者が威儀をととのえて派遣された。

半信半疑の男大迹王は、三国から河内の樟葉宮(大阪府枚方市樟葉)にお移りになったものの、「自分には天子の才能がなく力不足である」と仰って、皇位にお即きになることを辞退された。

それでも金村ら群臣がなおも懇願し、ようやく即位された。

この方が継体天皇である。


天皇は即位にあたって皇位のしるしの「神器」を受け取られた。

天皇が樟葉宮におちつかれてのち、最高権力者の大伴金村が朝廷全体を代表して、「天子の鏡、剣の璽符」を献上したという。

これを2度、辞退されたあと受け取られて、同日、即位された(継体天皇元年2月4日)。


継体天皇は壮年になられると、人を愛し賢人を敬い、心広く豊かな人柄であられたという。

また、倭彦王が逃げてしまわれたあと、金村は群臣に「(男大迹王は)情け深く親孝行であり、皇位を継がれるのにふさわしい」といい、群臣もまた「(皇室の)ご子孫を充分にお選びしてみると、賢者は男大迹王だけだったようだ」といった。


天皇は農業養蚕を怠っては富み栄えることはできないと考え、自ら耕作され、皇妃も自ら養蚕をされた。

こうして農業や養蚕の重要性を人民に知らしめ、この甲斐あって、天皇の時代は土地が肥え、五穀豊穣だったという。


外交では、金村が百済の要求に応じて任那の4県を割譲した。

ところが、これによって任那が新羅に降伏してしまったので、継体天皇21年、近江の毛野臣率いる6万の兵を任那に送った。

すると新羅は、ひそかに反逆の機会を狙っていた筑紫国造磐井に賄賂を贈り、決起をすすめた。

磐井は決起し、新羅の思惑通り毛野臣の軍は前進できなくなった。

そこで天皇は、物部麁鹿火大連を大将軍にして筑紫に派遣された。

翌年、麁鹿火は磐井を討ち、乱を平定した。

これが「磐井の乱」と呼ばれる古代の騒乱である。


継体天皇25年、天皇は病気が重くなり、磐余玉穂宮で崩御された。

古事記』によると43歳、『日本書紀』では82歳であられた。


「五世孫」の史実性

『古事記』『日本書紀』は継体天皇を「応神天皇五世孫」としながら、その系譜を具体的にあきらかにしていない。

だが『日本書紀』にはもともとべつに「系図一巻」がついており、それがいつしか失われて、今日まで伝わらなかったのであり、現に『古事記』に載せる詳しい系譜が『日本書紀』では省略されている例がいくつもある。

これは『日本書紀』が編纂当時に知られていた系譜をすべて記事におさめていたのではなく、別巻の系図にゆずる場合も多くあったことを示す。

故に継体天皇の場合も、特に不審とするにはあたらない。

さらに「『上宮記』一云」によっても継体天皇の系譜が判明している。

『記紀』よりも古い文献である『上宮記』には、継体天皇(男大迹王)の父方・母方の系譜が詳しく書かれており、父方を五世さかのぼると応神天皇にたどりつく。

継体天皇は父方も母方も、皇統につながっていたことは確かである。


さらに、和歌山県橋本市の隅田八幡神社につたわる人物画像鏡に刻まれた銘文には、「癸未年」という貴重な年紀(継体天皇即位の少し前)が見える。

銘文中には「男弟(孚弟)王」という人名まで書かれており、これは男大迹王(継体天皇)と見て間違いない。

注目すべきは「王」となっていることで、同時代の文章の中ではっきり、君主の血筋につながる方であるとされていることである。

またこの文章は前年に即位したばかりの百済の武寧王(斯麻王)が命じて書かせたものらしく、男大迹王が皇統につながることは当時の朝鮮半島でも知られていたことにもなる。


同時代の墨田八幡神社の人物画像鏡の銘文も、7世紀後半にさかのぼる『上宮記』一云も、継体天皇が応神天皇の五世孫であることを裏づけており、系譜を疑う理由はない。


また継体天皇の即位をめぐる局面で、イニシアチブをとったのが大連の重責にあった大伴金村であり、即位に際しても武烈天皇の時代の大臣・大連ら3人がそのまま再任されていることも重要である。

天皇を補佐する重臣に視点を置けば、武烈天皇の時代から宣化天皇の時代までほぼ一貫したものがあり、その間に断絶はない。

これらの事実もまた、継体天皇の即位が、戦後一時期唱えられた「王朝交代説」からはおよそ程遠い実態だったことを示す。


なお、皇統に繋がる血筋を引いていたものの、その血縁の遠さから先述の通り自らは天皇の地位に相応しい人物と思っておらず、即位と共に第二十四代目の仁賢天皇の娘(武烈天皇の姉)・手白香皇女を皇后にした。手白香皇女との子が欽明天皇であり、「天皇の」の血筋を持つ彼が以降の天皇の祖先となっている。

欽明天皇の先代である安閑・宣化天皇は手白香皇女の子ではないが、二人共即位時には非常に高齢で、年若き欽明天皇への中継ぎ(当時は天皇になるには年齢も必要だった)として即位したと考えられる。


継体天皇の即位は確かに異例であったが、その経緯を通じて、継体天皇即位当時の朝廷がいかに皇統を重視していたかが分かるのである。

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました