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木村拓也の編集履歴2019/08/29 03:31:51 版
編集者:星野聖夜
編集内容:死去時の状況について加筆。

来歴

高校時代は遠投120メートル、HR35本の強肩強打の捕手として鳴らした。

その後、1990年にドラフト外で日本ハムファイターズに入団し、達川光男に見初められて1994年オフにトレードで広島に移籍すると、スイッチヒッターに転向して、なおかつ内外野全て守れる便利屋として活躍する。

このまま広島で現役を終えると思いきや、2006年シーズン中に突如トレードで放出され巨人に移籍。最初は出番が無いと自分でも思っていたらしいが、すっかり参っていた巨人を二塁手として支え、後の巨人の三連覇にも貢献した。

上述のとおり内外野の全ての守備を可能とし、元々は捕手であったことから2009年9月4日には延長戦で負傷退場し、捕手登録枠が無くなったところで10年ぶりにマスクをかぶり、豊田、藤田、野間口とバッテリーを組み、その回を三振二つと外野フライで無失点に抑えた。捕手経験者では小笠原道大もいたが、木村以上にブランクが長いうえ、膝に不安があったので、実質木村しかいなかった。また、2004年のアテネ五輪の時に代表選手に選ばれていたが、その際にブルペンキャッチャーを駆って出ているため、実質的には5年ぶりということになる。なお、高校時代には投手も経験している。

普段から捕手、一塁手、内野手、外野手と4種類のグラブを持ち歩いている。

本人いわく、センターラインから左方向の守備は苦手らしい。

名前がSMAP木村拓哉と同姓同名で、さらに同い年でもあり、テレビ番組で対談するなどお互い面識もあった。なお、その日の対巨人戦で工藤公康からホームランを打っている。

引退~突然の死

2009年現役を引退しコーチに転進。

しかし、指導者の道を歩み始めた矢先であった2010年4月2日、遠征先の広島市民球場で試合前の練習中にクモ膜下出血を発症して倒れ、その5日後である4月7日、入院先の病院にて37歳の若さで死去した。皮肉にも、現役時代に一番活躍した地で、生涯の最後を迎えることとなった。

自分は「こういう選手になろう」と思ってここまで来た選手じゃない。こうやるしか思いつかなかった。

それが「ユーティリティープレーヤー」、「何でも屋」で、それでもこの世界で食っていける。

「レギュラーになる、エースになる」だけではない。

応援歌

広島時代

『♫足の速さは誰にも負けない 風を切り走れ 木村拓也』

※現在は木村昇吾に流用されている。

巨人時代

『♫狙い澄ました一撃が勝負を決める vへの道拓け 木村拓也』

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