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ヴァルター・モーデルの編集履歴

2019-12-01 10:48:45 バージョン

ヴァルター・モーデル

ばぁるたーもーでる

ドイツ国防軍の軍人。

経歴


オットー・モーリッツ・ヴァルター・モーデルは1891年1月24日にゲンティーンで音楽監督の父の長男として生まれた。


1909年、第52ブランデンブルク歩兵連隊「フォン・アルフェンスレーベン」に士官候補生として入営。ニサの士官学校で教育を受ける。


1901年、少尉となり、連隊の第一大隊に配属される。


第一次世界大戦では、第52連隊の大隊・連隊副官、中隊長、陸軍最高司令部作戦課、後備第36師団次席参謀を歴任し、終戦時は大尉であった。


終戦後も軍に残り、第17軍団参謀、東部国境警備隊、第14歩兵連隊第2大隊機関銃中隊長、戦術・戦史教官、兵務局教育部、第2歩兵連隊長、参謀本部技術長、第4軍団参謀長を務め、1939年の第二次世界大戦開戦時は第16軍参謀長である少将であり、ポーランドと翌年のフランス侵攻戦に参加し、4月には中将に昇進していた。

11月に第3装甲師団長に就任。


1941年6月より始まったソ連侵攻バルバロッサ作戦にはハインツ・グデーリアン上級大将の[[第2装甲集団に所属し活躍。

装甲兵大将に昇進し、11月1日には第41装甲軍団長に就任。ゲオルグ・ハンス・ラインハルト上級大将の第3装甲集団に所属しモスクワ攻略の[[タイフーン作戦に参加。12月5日には軍団最先鋒はモスクワから35㎞まで前進するも冬の到来とソ連軍の反撃により苛酷な後退戦を強いられるが、モーデルの冷酷なまでの断固としたリーダーシップで崩壊する事無く秩序だった後退を行う。


1942年1月15日、第9軍司令官に就任。

突出部となっていたルジェフを担当する同軍へのソ連軍の反攻は激しかったが此処でもモーデルのリーダーシップが発揮された事もあり持ち堪え、その功により2月には上級大将に昇進。

7月からの反撃ザイドリッツ作戦で後方深く食い込んでいたソ連軍を包囲殲滅。

11月に始まったソ連軍の大攻勢火星作戦にも大損害を与え撃退する事に成功するも第9軍の損耗も激しく、1943年3月にルジェフ突出部から撤退した。

7月のクルスクの戦いでは北と南でクルスク突出部を噛み砕く攻勢の北方の上顎の任務を与えられるが、歩兵を主とした部隊で陣地に破孔を穿った後に突破兵力として装甲部隊を投入する彼の計画は強固なソ連軍陣地により歩兵は突破できず、またソ連軍がオリョールに攻勢をかけてきたためにそれへの対応で殆ど前進できないまま作戦を終了する事となる。

第9軍はソ連軍の攻勢を前にドニエプル河まで撤退。

9月、第9軍司令官の任を解かれ、ドレスデンで家族と休暇を取る事となる。


1944年1月9日、北方軍集団司令官に急遽就任。

ソ連軍の攻勢を受け崩壊寸前の状態から部隊を後退させ戦線を安定させる。この功により3月1日、元帥に昇進。

30日、北ウクライナ軍集団司令官に就任。

6月28日、ソ連軍のバグラチオン作戦で壊滅的な状況に陥った中央軍集団司令官も兼任する事となる。

ミンスク保持は可能とした強気のモーデルもこの状況を覆すことは出来ず、ポーランドのワルシャワまで200㎞の地点でソ連軍が攻勢限界点となりようやく戦線を立ち直らせる事が出来た。

8月17日、西方総軍B軍集団司令官に就任。

情勢は厳しく22日までにはファレーズ包囲戦で第7軍は英米連合軍により壊滅状態となり、25日にはパリも解放され、モーデルはドイツ軍をドイツ国境付近へと撤退させた。

9月2日、西方軍司令官の任を解かれ、後任には再びゲルト・フォン・ルントシュテット元帥が就任。これでモーデルはB軍集団司令官の職務に専する事が出来た。

17日より始まったオランダの解放とドイツ本国への通路確保の為の連合軍の空よりの空挺部隊と陸上部隊からなる一大攻勢マーケット・ガーデン作戦を受け、モーデルの積極果敢な指揮が災いし、連合軍の目的である橋の確保を阻止する為の橋の爆破を反撃の為に認めずナイトメーヘン橋まで侵攻されるも、アーネム橋は確保し英第1空挺師団を壊滅させ攻勢を頓挫させた。

12月16日、奇しくも1940年フランス侵攻の発起点となったアルデンヌの森にて西部戦線における最後の攻勢を行う。しかし一週間余りで攻勢は失敗し、ドイツ軍は最後の予備兵力を喪失する事となる。(バルジの戦い)

1945年4月1日、B軍集団は米第1・第9軍に包囲される。

15日、米第18空挺軍団司令官マシュー・リッジウェイ少将より降伏勧告を受けるも拒絶。

21日、デュースブルクとリントルフの中間点の森でモーデルはピストル自決を遂げた。


逸話

●時には苛酷なまでの溌剌としたアグレッシブなリーダーシップで部隊を牽引して部隊の規律を維持した。その東部戦線で三度、西部戦線で一度、崩壊していた戦線を立て直した手腕は有名で「ヒトラーの火消し」役の異名を得た。

自信家でもあり、第9軍司令官着任の折には部下の増援はどのくらい来るのかの質問に「私だ」と答えたり、マーケット・ガーデン作戦の折には空挺部隊の降下先がたまたま司令部の近くだった事から、連合軍の目的は自分の誘拐・殺害であると当初は考え、連合軍の目的がオランダを繋ぐ橋の確保と判明後、部下から橋を爆破すれば自ずと連合軍を敗北させれるとの意見を頑なに拒み、反撃に使用する為に認めなかった。


●ぶっきらぼうで口が悪く、上官への話し方も礼儀を欠いていたと言われ、また自信に満ちた積極果敢な激しい言動やヒトラーのお気に入りで出世も早かった事もあってか敵も多かった。その為か将校としての必要教育を受けていたれっきとした将校だったにも関らず、兵隊あがりの将軍との説が流布した事もあった。

しかし、本人は言われる程には自信家でも野心家でもなかったようで、西方総軍とB軍集団の司令官を兼任して暫く後には自身の能力に余る事を素直に認め、どちらかに専念したい旨を上層部に訴えている。

またバルジの戦いでは、アルデンヌでのヒトラーの攻勢案を知った折には「この作戦という椅子には立つ為の一本の足すらない」と述べたといわれ、ミューズ河前面で米第1軍を包囲殲滅する現実的な代案をヒトラーに出している。


●ヒトラーへの忠誠心は国防軍将軍の中で最も高い人物の一人であったが、ヒトラーが最末期に「この戦争に負けたドイツ国民に生きる価値はない」とドイツのインフラ全てを破壊するよう命令したネロ指令は無視している。


●積極果敢な性格であったが、戦術では攻撃より防御が得意だったと思われ、ルジェフ戦などの手腕は高く評価されている。その反面、クルスクの戦いでは突破部隊の装甲部隊を温存する為に歩兵を主力とした部隊にソ連軍陣地をまず攻撃させて失敗し、当初から装甲部隊も投入した南方軍集団がある程度の突破に成功したのとは対照的であった。

バルジの戦いでも戦車の活動に不向きな地形に歩兵で攻撃して破孔を穿ってからの装甲部隊の突破を提案し、それを受けた第6SS装甲軍は突破に失敗し、当初から装甲部隊も投入した第5装甲軍は突破に成功している。

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