概要
淀滝とは江戸時代に実在した有名な大女・女力持ちである。
プロフィール
人物
大きな手足を隠したがる、恥ずかしがりな温和な性格の人物だったという。力持ちを見せ物にしていた江戸時代・文化年間に実在した長身女性である。
経歴
文化四年(1804)に23才だった。浅草の柳稲荷で見世物小屋(もしくは茶屋)にいた力芸の芸者であり、身長七尺五寸(227.3cm)の大女で女力持ちであった。美女(見目よし)であったと書かれている(加藤、石塚)。
元は千葉出身の品川宿の旅館「鶴屋」の飯盛女「つた」だったとも(石塚)、東北、静岡、福井出身の女性だったとの諸説がある。
落語では「つた」は品川宿で春を鬻(ひさ)いでおり、江戸から多くの男性が彼女目当てに足繁く通い、女性器の具合については非常に良かったとも大味だったとも言われている。
後年は梅毒で亡くなったとも、裕福な商家の内儀になったとも言われている。
同時代の人達が書いた一次資料が幾つも現存することから、実在した人物であり江戸中で大人気であった事はほぼ間違いはない。しかしながら、出身地、身長や「おつた」との関係等には諸説がある。
特技
碁盤をつかんで振ってロウソクを吹き消し(北辰一刀流の千葉周作などが後にこれを真似て特技としたらしい)、米四斗(60kg)俵に小男を乗せて軽々と持ち上げた。55貫(206kg)を持ち上げたとも、釣り鐘を左肩に乗せて右手で書を書いたともいう。(当時、人足は米一俵を肩に乗せて運べて一人前、との基準あり)
身長に関する考察
淀滝の身長には諸説がある
馬琴及び喜多村によると、六尺七寸(約203センチ)の丈の着物を着ても、裾をひくのはわずかに一、二寸(約3~6センチ)に過ぎなかったとされ、頭の先が肩から上27cmとすると身長は227cmであり、身の丈七尺五尺(227.3cm)を支持する。
石塚によると身の丈七尺五寸は看板だけで実際は六尺弐寸(188cm)に過ぎなかったとする。しかし1799年生まれの石塚が父に肩車をしてもらい淀滝を見たのは6才の子供の頃であり、なぜ七尺五寸はただの看板であるとするのかは不明(肩車をされていても壇上の淀滝を見下ろしたとは考え難いし、淀滝が観衆と同じ高さに立って石塚に見降ろされていたら詐称は一目瞭然である)。また馬琴は1767年生まれで当時は既に人気作家となっており、加藤及び喜多村とその他の観衆と共に淀滝の身長を40cmも誤認していたとは考えにくい。また馬琴は淀滝の手形を入手して大きさを計った程の淀滝のファンでもあった。
当時は身長197cmの力士雷電爲右エ門もまだ活躍しており、雷電よりも10cmも低い淀滝を雷電より30cmも背が高いと多くが誤認していたとは考え難い。たとえ当時の男性の平均身長が157cmであったとしても、現代の女性の大多数が、197cmの有名な人物が近所にいるにもかかわらず、身長188cmの人物を2m27cmと誤認するとは想定し難い。(現代の男性の大多数が、2m11cmの有名な人物が近所にいるにもかかわらず、身長2m02cmの人物を2m41cmと誤認するとは想定し難い。)
別名
つた
関連タグ
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実在の人物
出典
加藤曳尾庵(1763ー)『我衣』
滝沢(曲亭)馬琴(1767ー1848)『兎園小説』(1825)
喜多村信節(1783ー1856)『聞のまにまに』
石塚豊芥子(1799-1862)『街談文々集要』(1860)
斎藤月岑(1804年ー1878年)『武江年表』
三田村鳶魚 『相撲の話~七尺五寸の淀滝~』(1996)
細川涼一『平家物語の女たち 大力・尼・白拍子』(1998) p.42
興津 要 『江戸小咄女百態』(2008) pp.164