経歴
江戸時代後期に浅草の柳稲荷の見世物小屋(もしくは茶屋)にて芸者をしており、七尺五寸(227.3cm)とも言われる大女で、大変な力持ちであった。
七尺五寸が正確な記録かは不明であるものの、仮に本当だとすれば現代の基準から見てもかなりの長身である(参考までに、2021年にギネス世界記録に登録された「世界で最も背が高い女性」ルメイサ・ゲルギは身長215cmである)ことは間違いない上、江戸時代の庶民の身長が、男性が157.1cm、女が145.6cm程度とされることを考えれば、まさに稀代の大女といえる。
また、加藤曳尾庵『我衣』によれば美女(見目よし)であったと書かれている。
詳しい出自は明らかになっていないものの、石塚豊芥子『街談文々集要』によれば、元は下総(千葉)出身の農民の娘で、「つた」という名前の、品川宿の旅館「鶴屋」の飯盛女(※旅籠、つまり宿で女中をしながら宿泊客相手に売春を行う女性のこと)であったという。つたは文化四年(1807年)の時点で23歳であった。
宿には大女をひと目見ようと多くの客が押しかけた。また、つたは自分の手や足が大きいことを恥ずかしがってなかなか見せたがらなかったが、これが男たちの気をさらに惹くこととなった。宿の主は当初客がつかないであろうとつたに安値をつけていたため、客足が増して大儲けし喜んでいたとのことである。
その後「大女淀滝」と名前を改め、浅草の見世物小屋で芸を披露するようになる。石塚は幼少期、父に肩車されて浅草に淀滝を見物に行ったと綴っており、扇に書かれた字はなかなかに達筆であったと振り返っている。
ほかにも、東北、静岡、福井のいずれかの出身だったとも言われる。
後年は梅毒で亡くなったとも、裕福な商家の内儀になったとも言われ、詳しくはわかっていない。
同時代の人達が書いた一次資料が幾つも現存することから、少なくとも実在した人物であり江戸中で大人気であった事はほぼ間違いはない。しかしながら、出身地、身長や経歴などは諸説あり、詳しい資料も残っていない。
特技
見世物小屋では、碁盤をつかんで振ってロウソクを吹き消し(北辰一刀流の千葉周作などが後にこれを真似て特技としたらしい)、米四斗(60kg)俵に小男を乗せて軽々と持ち上げた。55貫(206kg)を持ち上げたとも、釣り鐘を左肩に乗せて右手で書を書いたともいう。(当時、人足は米一俵を肩に乗せて運べて一人前、との基準あり)
身長に関する考察
淀滝の身長には諸説がある。
曲亭馬琴及び喜多村信節によると、六尺七寸(約203cm)の丈の着物を着ても、裾をひくのはわずかに一、二寸(約3~6センチ)に過ぎなかったとされる。女性の着物の丈は実際の身長から±5cmの長さであれば普通に着こなせるとされるため、この評価が正しければ少なくとも2メートル近い身長があったことは間違いないといえる。
なお、男性の着物の場合は中におはしょりなどがないため、おおむね肩の高さから下の丈がそのまま着丈となる。このため、淀滝がもし「男物の着物をそのまま着ていた」のであれば七寸五分という身長はある程度信憑性が高いといえるが、実際にどのような着こなしであったかは不明である。
石塚によると「身の丈七尺五寸」は看板だけで、実際は六尺弐寸(188cm)に過ぎなかったとする。ただし石塚が父に肩車をしてもらい淀滝を見たのは6才の頃であるため、誤認(例えば屈んだり座ったりしたところを見ていた、周りがそのように吹聴していたなど)や記憶違いの可能性も大いにある(肩車をされていても、父が特別長身か、周りより高いところから見ていたのでもない限り壇上の淀滝を見下ろしたとは考え難い。仮に淀滝が観衆と同じ高さに立って石塚に見降ろされていたなら、詐称は一目瞭然である)。
馬琴は1767年生まれで、淀滝が注目を集めていた当時は既に人気作家となっており、加藤及び喜多村とその他の観衆と共に淀滝の身長を40cmも誤認していたとは考えにくい。また馬琴は淀滝の手形を入手して大きさを計った程の淀滝のファンでもあり、彼によれば手の長さは縦が六寸九分(約21cm)、横が親指を深めて四寸弱ほどであった。手の長さは身長の約11%が平均とされるため、単純計算で231cmとなり、227cmという評判ともおおむね一致する。しかし、旅籠に勤めていた頃のエピソードから、手足が体に対して特別に大きいという可能性も否定できない。
身長170cm代との説もあるが論外であり、これは偽物が多く出たとのことで、偽物による記述であろう。
なお、身長六尺弐寸の記載が二次資料では多数を占めるが、多くが石塚の随筆を引用しているためである。三田村鳶魚(江戸時代研究家)の『相撲の話』では随筆が引用されてはいるものの、副題に七尺五寸を取っている。
当時は身長197cmの力士雷電爲右エ門もまだ活躍していたが、仮に188cmであったなら、雷電より30cmも背が高いと多くが誤認していたとは考え難い。当時の人々が小柄であることを踏まえても、197cmの有名な人物が近所にいるにもかかわらず、身長188cmの人物を2m27cmと誤認するとは想定し難いといえる。
むろん、見世物小屋である以上「盛った」可能性も高い。女性の平均身長が約145cmの時代に、それより50cm以上も身長が高い女性がいれば当然話題となるであろうし、客は離れたところから見ることになるためスケール感もわからない。
あくまで「周りから飛び抜けて背が高い」ことが伝わればよいので、多くの人にとって実際に七尺五寸である必要はないのである(※例えば太っている人のことを「百貫」と揶揄することがあるが、一貫が約3.75kgであるため百貫は375キログラムととんでもない重さになってしまう)。
また上記の雷電の身長も諸説あるため、彼がそれ以上に背が高い(あるいは低い)こともありうる。二人が直接対面した証拠や、あるいは二人と近くで顔を合わせた人物の証言がない以上、根拠として用いるには少々弱いと言える。
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出典
加藤曳尾庵(1763ー)『我衣』
滝沢(曲亭)馬琴(1767ー1848)『兎園小説』(1825)
喜多村信節(1783ー1856)『聞のまにまに』
石塚豊芥子(1799-1862)『街談文々集要』(1860)
斎藤月岑(1804年ー1878年)『武江年表』
三田村鳶魚 『相撲の話~七尺五寸の淀滝~』(1996)
細川涼一『平家物語の女たち 大力・尼・白拍子』(1998) p.42
興津 要 『江戸小咄女百態』(2008) pp.164