本名:木村政雄。1941年6月30日-2010年5月24日。北海道中川郡出身。
身長185cm、体重125kg、血液型B型。
幼い頃、兄を頼り上京した際に見た力道山のポスターを見てプロレスラーを目指すが兄の知り合いである相撲の親方にちゃんこを奢ってもらった関係で一度は角界入り。
順調に出世をするもののプロレスへの夢を捨てきれず廃業し日本プロレス入り。
その後、東京プロレス、国際プロレス(金網の鬼)、新日本プロレス(はぐれ国際軍団)、第一次UWF、全日本プロレス(ファミリー軍団)、NOAHと渡り歩き60過ぎまで現役を続けた。
田園コロシアムでの「こんばんわ事件」以降は前半でのお笑い担当、マイクパフォーマンス担当としてギャグレスラーとしてのイメージが強いが本格派揃いの第一次UWFに在籍していたり、相撲はもとよりサンボも経験していたという強力なバックボーンもあり隠れた実力派だとする声もあった。
生涯現役を目指していたが、2003年に長期欠場を発表、そのままリングからフェードアウトする形で2004年にビデオレターで引退を表明。そして2010年5月24日、腎不全による誤嚥性肺炎のため死去。享年68。
余談
1981年9月23日の新日本プロレス田園コロシアム大会での登場時の第一声で「こんばんは……」と言ったのは、初めての場所だから先ずは確り挨拶をしなければ失礼に当たると考えたから。この事からも判る通り、素は非常に真面目。
この挨拶の後、アニマル浜口や寺西勇から「おっとう(ラッシャー木村の愛称)!! どうして挨拶なんかしたんだ、あれはまずいよ!!」と窘められるも木村は「初めての所で挨拶するのは当然だろう!! どうして笑われなければならないんだ!?」と終始御冠だったという。
新日本参戦時はヒールとしてファンの憎悪を浴びていた。なのでお笑いなど入り込む余地は微塵も無かった。またその為に心無いファンの迷惑行為に心を痛めていた。
プロレス界きっての大の愛犬家でも知られている。国際プロレス時代には売り興業で静岡・焼津の実力者の邸宅にアニマル浜口と寺西勇と共に挨拶で訪れた際、檻に入れられていた獰猛な番犬を見て浜口と寺西は怯んでしまったものの、木村は全く臆する事無くすぐその番犬を手なづけたり、晩年に住んでいたマンションでは夜、わざと玄関のドアを少し開けた状態にして、隣の住人が放し飼いしている小さな犬が朝、そこから自分のベッドの所に入って来ては可愛がれる様にしたという(以上、原田久仁信著「プロレス地獄変」でのエピソード。後者の方は『もし世話が出来なくなったら、放っておかれてしまう犬が可哀想だから』という理由で敢えて犬を飼わず、その代わりとして取った行動との事)。また新日本プロレス在籍時代には前述の心無いファン(熱狂的な猪木信者が主だと言われている)からの嫌がらせが当時飼っていた愛犬にまで及び、愛犬がストレスで円形脱毛症に陥った時は自分の事以上に悩んだという。
国際プロレス在籍時に海外武者修行に言った際は、『言葉を喋る事ができない』と言うギミックでファイトしていた。(英語が話せなかったのでそれを逆手に取った)
新日本参戦は国際プロレス倒産による興行機能喪失により、社長の吉原功が団体対抗戦模索した事がきっかけだった。だが所属レスラーの多くが反発し、全日本へ移籍する者や海外に活路を求める者が続出したので、結局ラッシャー木村とアニマル浜口、そして寺西勇の3人での参戦となった。
新日本参戦時のユニット名は「国際軍団」だったが、目に余るヒールぶりと全日本参戦組も「国際軍団」と名乗っていた事からいつしかファンやマスコミから「はぐれ国際軍団」と呼ばれるようになった。
当初は元国際のストロング小林もメンバーに入れるつもりだったが、小林は共闘せず程無く引退してしまった。なお、小林と同じく国際プロから新日本へ移籍していた剛竜馬は数に入っていなかった。
「イカ天」のレギュラー審査員を務めていた。
1986年6月17日の愛知県体育館における公式戦にて、アンドレ・ザ・ジャイアントはアントニオ猪木の腕固め(別名で『大巨人狩りアームロック』と言われている)で史上初のギブアップ負けを喫したと公式で言われているが、実はそれ以前に国際プロレスのリングでラッシャー木村がアンドレに逆海老固めでギブアップを奪っている。
関連タグ
国際プロレス 新日本プロレス 全日本プロレス プロレスリング・ノア
ジャイアント馬場(全日本に参戦した際に「アニキ」と呼び、義兄弟タッグも組んだ。でも、裏切ったことも何度かあった)
渕正信 永源遥 大熊元司 アニマル浜口 アンドレ・ザ・ジャイアント
金網デスマッチ(ケージ・マッチ。かつては「金網デスマッチの鬼」と称された)