トキノミノル
まぼろしのうま
生涯
1948年に北海道三石町(2006年に静内町と統合、新ひだか町と改名)の牧場に生まれ、「パーフェクト」と名付けられた。
なかなか買い手が付かなかったところに、名騎手にして名調教師であった田中和一郎を通じて大映社長であった永田雅一に紹介される。
元々永田は買う気がなかったのだが、田中和一郎や牧場主の説得を受け、100万円で購入した。
ただ、決して安くはない買い物をしたにもかかわらず(実はこの頃の100万円は現在の貨幣価値にすると2億円はするとの事)、永田はあまりこの馬に関心を示さなかった。
そのため3歳馬(ただし現在の年齢計算上は2歳馬)になっても改名させてもらえないという有様であった。
そんな中1950年7月に望んだ函館競馬場でのデビュー戦であったが、練習中に気性の荒さが出てしまい、出走が出来なくなりかけた。栗林友二(最強の牝馬と言われるクリフジのオーナーとして知られる)の仲立ちで出走が許されたものの、当日もスタート直前に騎手を振り落とすというトラブルをやらかした。だが、いざレース本番に入ると、恐ろしいほど順調なレース運びを見せ、気が付けば8馬身差で圧勝してしまった。
ところがパーフェクトのデビューウィンを電話で知った永田はと言うと、「何だそれは!?」と言い返してしまった。しかし数日後田中の厩舎を訪ねた永田は、パーフェクトの快挙にすっかりご満悦の様子、その勢いで「トキノミノル」と改名させたのだった。
以後トキノミノルは連戦連勝、1951年5月13日に中山競馬場で行われた第11回皐月賞で当時のコースレコードであった2分3秒0をマークし見事優勝した。
だが・・・・・・・・・・・
皐月賞の翌日、中山から戻ってきたのは良かったが歩き方がどこかおかしくなっていた上、それから10日くらい後、右前脚の蹄にヒビが入っていた事が見つかる。
そんな事もあり、日本ダービーに向けての調教を軽めにせざるを得なかったのだが、それに対し田中が「なぜ追わない」と、珍しく声を荒げてしまう(田中は穏やかな人格者として知られていた)。さらに右前脚をかばうあまり左前脚の具合も悪くなってしまった。ゆえに永田は日本ダービーへの出走断念も本気で考えるようになる。
ところが、6月1日に入り、急激に具合が良くなっていった。その結果日本ダービーへの出走を決めたのだが、それまでの調整不足故に、関係者からも不安の声が上がった。そんな事もあってか蹄と蹄鉄の間に念のためにフェルトと言う布を挟んだうえで本番に臨んだ。
かくして6月3日の第18回日本ダービー。序盤から中盤までは故障を恐れてかなり後方を走らざるをえなかった。だが、向こう正面でスパートを掛けると一気に先行していた他の馬を引き離し、終わってみれば1馬身差で優勝を果たす。
無敗のまま日本ダービーを制した名馬に近寄ろうと観客の一部が馬場に殴り込んでしまうという有様で、そんな混乱のなかで記念撮影をするハメになってしまった。
競馬ファンの間からは「菊花賞もいけるぞ」という声も飛び、永田も、「菊花賞も取ったらアメリカ遠征も考えている」とも発言した。永田ラッパの面目躍如。
しかし日本ダービーから5日後、厩務員から「どうも元気がない」という声が上がる。それから約1週間後には目が赤くなっているのが見つかり、この時は結膜炎ではと判断される。
ところが結膜炎を疑った次の日にはさらに症状が悪化した事から詳しく調べてみたところ、破傷風である事が判明、そちらの治療に切り替えた。
その後一時回復に向かっているかに見られたのだが・・・・・・・・・・
1951年6月30日、無敗のまま日本ダービーを制したトキノミノルは、破傷風による敗血症でその生涯を終えた
その死は社会にかなりの影響を与えており、女流小説家で馬主でもあった吉屋信子が毎日新聞に寄せた追悼文に記した「幻の馬」が、この悲運の名馬の代名詞となった。
1955年にはこの馬をモチーフにした映画「幻の馬」が大映東京撮影所(現在の角川大映スタジオ>KADOKAWA)によって制作され、大映系の映画館で上映されている。