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小田急ロマンスカー3000形SEの編集履歴

2021-12-20 20:47:54 バージョン

小田急ロマンスカー3000形SE

さんぜんがた

小田急電鉄の特急、「ロマンスカー」の初代専用車両。

甲斐酔おう

1957年登場。狭軌世界最高速度を記録した伝説の名車。

登場した目的は「新宿~小田原を60分で結ぶ」ことと、同区間でライバルとなる国鉄に対抗するために「画期的な特急車両を作る」ことであった。


なお、このとき開発に鉄道技術研究所関わっていたことはあまり知られていらず、当時小田急に在籍していた山本利三郎の影響が強い。

しかしながら、このことがきっかけでこの車両が国鉄東海道本線上で高速試験が行えたといえる。


山本氏は「20年も30年も使うと言う今までの発想ではダメだ、10年使ったら廃車するつもりでないと」といった後のどこぞの走るプレハブを思わせるような趣旨の発言をしていたと言う。結果的に、それが大胆な軽量化につながった。

これまでの鉄道車両の常識(電車と言えば箱型)を覆すようなその設計思想などは国鉄、さらには新幹線にまで影響を与え、「新幹線のルーツ」とも呼ばれる。ただ、SEは当初非冷房だったこともあって走行にかかる部分以外は軽量化のため割り切り設計であり、長距離を行く新幹線にもう一つ必要な高度な内装電装品に関しては国鉄自身の101系の量産過程で本格的なものになっていった部分が大きい。なのであえて言うなら「SEが新幹線の父、国鉄101系が新幹線の母」とでも言うべきだろう。


一方で国鉄内部には「電車の時代は一時のこと、動力集中式の時代がまた来る」や「私鉄の車両に東海道線で速度記録を作られたら国鉄の面子が潰れる」といったかなりの風当たりがあったらしい。「145km/h以上は出さないこと」国鉄の最新鋭電車でも高速度試験を行うこと」で決着をつけた。ちなみに145km/h以上出さないという条件の裏には、車両を損傷したときの責任問題もあった。小田急はSEの製造を住友銀行からの信託投資、早い話がローンで買っていたため、所有権自体が小田急にもなかったのである。ちなみにスペインの連接高速車両TARGOの設計技師の1人ホセ・ルイス・オリオールはこれ以前にSEに試乗し、「150km/hまでは大丈夫だ」と言っていたとか。

初のブルーリボン賞

記念すべきブルーリボン賞受賞車第1号、というより「3000形を顕彰するため」がブルーリボン賞の設立目的の一つであった。

当初は8両編成だったが、1968年以降御殿場線への乗り入れ運用への転用にあたり5両編成に改造されSSEとなる。

ちなみに、SSEのSは、「ショートSE」の略である。

引退

山本氏の公言通り、HiSEで蹴躓きその後バブル崩壊が始まるまではおおよそ10年に1車種の後継車が登場したものの、SEは減価償却期間を2回転し本来なら確実に廃車……という1985年頃、NSEへの置き換えが検討されたものの、当時財政破綻・労使関係崩壊・利用者からの信頼皆無の大混乱から分割民営化へと転がり落ちていいく国鉄に乗り入れ車両変更の提案ができず、JRが発足して安定するまで棚上げとなった。


1991年に全車引退。「結局、30年使ってしまった……」 国鉄を巻き込んで開発費を捻出しようとした結果、その国鉄に足を引っ張られる形で長居することになってしまったSEだが、どこぞの走る一斗缶と異なり、あちこち足らぬものの致命的と言うほどでもなく、最後まで人気者であった。

第1編成は大井川鉄道に譲渡されたが、5両編成と長く、また連接構造で使いづらかった為、小田急に残った車両より早く引退し、その後解体された。

第3編成は静態保存車両として、5両編成のうち新宿方の2両を登場当時のスタイルに復元し(ただし機器や車内は改造後のままであり、復元されたのは外観のみ)、海老名検車区内に作られた保管庫にて1編成丸ごと保存されていた。その後、2021年開業のロマンスカーミュージアムに移設。この際5両編成から3両編成に短縮し、外された中間車2両は解体された。

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