文字通り、忍者とはどのようにあるべきなのかを説いたものであり、侍の道を説いたものである武士道とは、ある意味で対を成すものである。
忍者は使用する忍術によって様々な流派が存在し、当然それぞれ流派により忍者がどうあるべきか考え方も異なっていると思われる。
表舞台で活躍してきた侍とは異なり、一族間によって秘密裏に伝えられていったものであることから、武士道と比べ世間でもあまり認知されていないだろう。
しかし近代に入り、忍者の道について具体的に説かれた例が存在している。
明治時代において、甲賀五十三家の一つである和田家に仕えた甲賀流忍の末裔であり、忍術家・武術家として知られた藤田西湖は、日本陸軍から諜報員・工作員を育成する新たな養成機関(後の陸軍中野学校)の教官として招かれ、依頼を受けた彼は学生たちに忍者の技術と心得を教え、その際に忍者の道について以下のように講話していたという。
「武士道では、死ということを、立派なもののように謳い上げている。しかし、忍者の道では、死は卑怯な行為とされている。死んでしまえば、苦しみも悩みも一切なくなって、これほど安楽なことはないが、忍者はどんな苦しみをも乗り越えて生き抜く。足を切られ、手を切られ、舌を抜かれ、目をえぐり取られても、まだ心臓が動いているうちは、何が何でも敵陣から逃げ帰って、味方に敵情を報告する。生きて生きて生き抜いて任務を果たす。それが忍者の道だ」
藤田は武士道において、戦いの中で死を遂げることは誉れとされているが、忍者の道ではそれを良しとせず、必ず生き抜いて任務を全うすることの重要性を説いていたという。
これはあくまでも、彼の流派で独自に教え伝えられてきたものかもしれないが、少なくとも甲賀流における忍者の道とはこうしたものだったと思われる。
ちなみに彼が説いたこの忍者の道は、伝えられた陸軍中野学校に深く根付いており、同校の出身者で『最後の日本兵』の異名で知られる小野田寛郎氏は、上述した藤田と同様のことを自身が中野学校で教わったこととして、著書『生きる』(PHP研究所)の中で語っている。