概要
日本の武術家であり、近代以降に存在した甲賀流の忍者でもある。甲賀五十三家の一つである和田家に仕えた忍の末裔とされ、和田派甲賀流十三代目だった祖父から忍術を継承し、十四代目を名乗った。
『最後の忍者』という異名を持つ。
経歴
明治32年(1899年)に警察官の父親の下に生まれ、甲賀流の忍者で甲賀流忍術13世を名乗っていた祖父から幼少より家伝の忍術を学び、祖父の死去を受けて後を継ぎ甲賀流忍術14世を名乗った。
甲賀流忍術の他にも、南蛮殺到流拳法、大円流杖術、心月流手裏剣術、一伝流捕手術といった多くの武術も継承している。
本名は藤田勇治(ふじた ゆうじ)だが、生涯本名を嫌っていたため、著書の筆名である藤田勇(ふじた いさむ)を本名とした。
知られている西湖の名は、忍術修行の一環として絵を学び、熟達して画家としても活動していた際の雅号でもある。
明治維新後に忍者・忍術が廃れ忘れられるのを危惧したのか、祖父の後を継いでからは大衆に忍術を披露し、世間では忍術家・武術家として知られるようになる。
それにより藤田のことを知った日本陸軍は彼と接触し、諜報員・工作員を育成する陸軍中野学校の前身である後方勤務要員養成所に教官として彼を招き、父が警官だったことから警察や軍の関係者と親交があったこともあり藤田はこれを引き受ける。
藤田は忍者の技術や精神性を学生たちに教え、
「武士道では、死ということを、立派なもののように謳い上げている。しかし、忍者の道では、死は卑怯な行為とされている。死んでしまえば、苦しみも悩みも一切なくなって、これほど安楽なことはないが、忍者はどんな苦しみをも乗り越えて生き抜く。足を切られ、手を切られ、舌を抜かれ、目をえぐり取られても、まだ心臓が動いているうちは、何が何でも敵陣から逃げ帰って、味方に敵情を報告する。生きて生きて生き抜いて任務を果たす。それが忍者の道だ」
と講話しており、戦って名誉の死を遂げることよりも、必ず生き抜いて味方に情報を届け任務を全うすることの重要性を説いていたという。
彼のこの思想は中野学校に深く根付いており、同校の出身者で『最後の日本兵』の異名で知られる小野田寛郎氏も、上述した藤田と同様のことを自身の著書で語っている。
関連タグ
宇髄天元(鬼滅の刃)…同様に近代日本の忍者。しかし、彼の一族は藤田とは異なり命を消耗品としか考えておらず、後に反発して抜け忍となり鬼殺隊に身を寄せてからは、彼も藤田と同様に生き残ることを重要視するようになった。